まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

般若心経×イマジン

2022年05月14日 | 読経の日々

雨ぶりの徒然にYutubeで動画を見て過ごしている。

たまたま『般若心経と×イマジン』(https://www.youtube.com/watch?v=Ya12UpAMUJ0)という動画に出遭う。

これが驚きの不思議な世界。

ジョン・レノンのイマジンの世界とお釈迦様の世界観がピッタリハマっている。

お釈迦様のいわれていることはこうゆうことなのかもしれないと、視覚と聴覚から入ってくるイマジンのイメージに感じ入り、ゆったりした気持ちになる。

こういうお坊さんもいい。
実にたいしたものである。

臨済宗の薬師寺寛邦(やくしじかんほう)さんとおっしゃる方らしい。

他の動画もみて、すっかりファンになってしまった。

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他の過ちを責めない

2022年05月13日 | 読経の日々

今週は雨降り続きでシルバーバイトも入らず、家事の外作業もできずで、『今日行く』と『今日用』にことかいている。

午後にかけてかなり強い雨が降る雲行きなので、ドロとホコリまみれの軽四を天水で洗おうと目論んで今スタンバイしているのだけれど、待てば不思議と雨が降らない。(笑)

少し時間があるので、お釈迦様にお世話になっているという話をブログに書いてみたい。

「信じる宗教は仏教です」と言い切れるほど強い思いはないのだけれど、わが家は曹洞宗の檀家で、子供の頃から生活の中に、農村に伝わっていた仏教の生活習慣のようなものがあった。

両親も亡くなり、自分が家の最年長となったここ十年ほどは、仏壇の前に座ることが増え、お経にも関心がでてきて、毎日短い間だけれど、呼吸を整え、正座して、曹洞宗のお経を読んでいる。

曹洞宗の先人たちがまとめた『修証義』というお経の中に、お釈迦様が正しいと信じ歩んだ道程を3つの誓いと10の戒め(実践すべき事項)にまとめた部分がある。

どれも言われればそのとおりという感じの言葉だけれど、これを行うのは至難な事柄ばかりで、煩悩だらけで、その煩悩によって自分が苦しんでいる人の行動を非常によく捉えていると思う。

10の戒め(実践すべき事項)の中の第六に『不説過戒』という教えが示されている。
漢字で書かれるとなんのことかとなるけれど、「他の過ちを責めない」ということ。

「他の過ち」というのは、時間の流れの関係性の中でたまたま生じた事象を、自分の目から見た感覚であり、立場を変えれば自身も常に起こしていることだ。

ここに強くこだわると、相手にも強くあたることになり、関係を悪くするし、結局自身の心が苦しくなる。

人間関係不得手で生きてきたけれど、今思うと随分と他を責め立てて生きてきた。

「他の過ちを責めない」と言葉では分かっていても、こんにち只今、目の前でトラブれば頭にくる。

自分の責を棚に上げてカッカし、他を責め、自分を正当化しようとする。

実践は容易いことではないけれど、他を責め、怒り出す前に、「まてまて」とちょっとだけブレーキを掛ける愛語の気持ちがあると、人間関係はむしろ良い方に向かうように思う。

仏教、宗教というものは今ひとつ分からないけれど、分かった部分だけでも、お釈迦様の教えを日々の生活の中で少しずつでも実践することは、自分にとってはご利益がある、有難いと思っている。

強い雨を待てど、未だ降らず。(笑)

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誰に向けたものなのだろう?

2022年04月05日 | 読経の日々

『小さなお葬式』というCMをこの頃よく目にするが、「これって誰に向けたものなのだろう?」と、ふと思う。

近頃はいつかは死ぬときがくるということを受け止められるようになったが、こんな自分に向けて、「みな飲んじゃわないで、ちょっとはお金を残しておかないと、残された人たちが迷惑だよ」と言っているようにも聞こえるけれども、残された家族等へ「お葬式は、シンプルにお安く、サクッといきましょう」と言っているようにも聞こえる。

お葬式という非日常の分かりにくい部分を、実際に先立つ費用という面で分かりやすく提示してくれるのは有り難いサービスではあるけれど、あまり安さやお得感、お手軽感を煽られると、順番でこれからフェードアウトしていく自分としては、なんだか日々生きている事自体が安っぽい感じがしてきてあまり良い気分になれない。

だいたいお葬式っていうのは、死んだ当人が心配する必要はない。生きている内に死んだときは、といくら考えてみても、まだ死んだわけではないし、先々実際に死んだその後はどうなるか自分にはわからない。

いざ死んでしまったら、もう生きていないのだから、そもそも心配はできない。

結局、生きている内は一生懸命家族や隣人を慮って今を生きればいい。死んでしまったあとの心配でお葬式代の保険に入ったりお金を残すなら、今を生きるために使った方がご利益がありそうだ。

お葬式は、残された生きている人たちの気持ちの整理の問題だから、その故人への思いの中で、できる範囲でやったらいいという話だろうと思う。

遺族がお葬式で借金をして後々ローン返済に追われるというんじゃお葬式の意味を成さないけれども、こういう非日常の気持ちの整理の部分までがパターン化、形式化され、金額で判断される社会ってどうなんだろう。

今風ではあるけれど、ちょっと寂しいと感じる。

 

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昨今のお葬式

2021年09月12日 | 読経の日々

隣の親爺さんが亡くなった。

もう四十年近く前に、カミさんと結婚式を上げる際に、(頼まれ)仲人をお願いした人である。

長く地域の役員などをしてきた人で、子供の頃からの、社会人として地域に参加してからの、いろいろな思いがある。

しかし、世はコロナ禍。

ワクチン接種は進んできたけれど、片田舎でも、日々ポツポツと感染報告が上がっている。

昨今の例で、喪主の意向で、家族葬・一日葬で行い、地域の会葬等は辞退するとのことで、「ある意味、静かに」フェイドアウト。

九十年以上もこの地に生きてきたにしては、なんだか、さっぱりし過ぎである。

核家族化が極端に進み、生まれたときも両親、父母くらいしか祝福されない。

連絡もない。

年老いて、一人旅立つときは、年老いたツレ合いと少数の子達に送ってもらう。

生前の挨拶もない。

一人で生まれ、一人で生き、一人で死んでいく。

これは人の生きる現実だけれど、なんだかとても寂しい、生きにくい世の中になってきた。

そう思う。

人は、仏性を持った人の間で育まれ、成長し、自らの仏性を感じ、他へ布施する。

田舎には、班という小さな地域グループが残っていて、今年はその班長をしている。

喪主に話を通し、みさなんに声をかけて、午前中、お焼香に行ってきた。

遺影、お位牌をみて、ああ、亡くなったんだとちょっと区切りがついた。

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#芦田愛菜 #密教 #即身成仏

2021年06月26日 | 読経の日々

自宅で蝉の初鳴きを聞いた。

いよいよ夏本番だなぁ、という日常を書いて、本日のログにしようと思っていたのだけれど、裏で流れていたYou Tubeで小池陽人さんの声に反応し、見入った。

陽人さんは、ほんと欲のないお顔で、若いのに、いい話をいつも聞かせてくれる。

話の内容は、真言宗、曹洞宗と宗派は違うけれど、違和感はまったく無い。仏教の正道の話である。

若い陽人さんらしい、いいお話を聞かせて頂いた。

「だよね!」
人は、いろいろな面があって生きている。

たまたま自分(私)の意とは違っても、受け入れるべきである。

陽人さんは、とてもルックスもよい方で、しっかりした方に見える。(実際にお話したことはない)

NHKの時代大河ドラマなどで、葬儀の場面などに、リアル出演しほしいかな、ともお思う。

宗教というと構えるけれど、仏教は、アジアの人たちにはあっていると思う。

陽人の法話:密教の「密」とは
https://www.youtube.com/watch?v=Qo31eHkQI-M

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