まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

生きるって、迷ってていいのかも

2021年04月14日 | 読経の日々

歯科通院の日で、シルバーバイトはなし。

雨天のため、外の家事もできずで、撮りためてあったテレビ番組の録画をみて時を過ごした。

NHK 『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』で、方丈記の作者、鴨長明さんをとりあげており、しばし見入った。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

この語りだし始まる方丈記は、今は知らないけれど、私のころは高校の古文で学んだ。

仏教の無常観で始まるこの冒頭は、当時、その意味はぜんぜん、うんともすんとも、ピンと来なかったけれど、頭に残った文節であった。

鴨長明というひとは、仏教に深く帰依し、達観した方だろうと思ってきたが、実像は処世術が下手で、内に籠もりがちな性向だったらしい。

日々迷い、日々今日はどう生きようかと模索し、晩年の時間まで迷ったという番組だった。

生きるって、迷い続けることで、「悟りがひらけ心安らか」「達観しました」ということではないらしい。

それでも、鴨長明さんは、後世に延々と残る作品を残した。

いつまでも、自分が大事。

そんな中で、そのエゴを抑えること(利他)が、自分がラクにいきることのなるのかもしれない。

もちろん、長明さんの生きた時代から今まで生きて、事実を伝えてくれている人はいないわけだから、後世の研究者の推測に過ぎない定説(歴史)だけれど、しびれたなぁ。

娑婆でいきていくというこは、俗っぽく、我欲的でもいいのかも。

でも、観音(お釈迦様のアバター)様の教えという軸足をしっかり持って(毎日仏壇に向かう時間を持って)、我欲的な自分を振り返る。

皆がそうすれば、少しずつ社会は平穏になる。
そんなふうに思った時間だった。

NHKらしい、いい番組だった。

NHKは最近いろいろ批判(そのとおりの部分もあるかも)はされているけれど、ラジオ放送を含め、日本人にとって、形の見えない必要なインフラ企業だと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真民さんの詩集

2021年02月07日 | 読経の日々

人は嫌いではないのだけれど、組織に入ってできる人間関係には、今でもとてもストレスを感じる。

ウォーキングについても、歩こう会のようなグループに入って、同世代の、知識を持ったみなさんと楽しくやれば、もっといい時間が過ごせるかもしれない。

仏教についても、お寺などで開かれる勉強会などに参加すれば、きっともっと深くいろいろなことに気づくのかもしれない。

そうは思うのだけれど、どうも一人がいい。

幸い昨今は、You Tubeでいろいろな情報を教えてくれる番組が多くなってきているので、そんなところで勉強させてもらっている。

人間関係不得手にとっては、こういうのは本当に有り難いと思う。

真言宗須磨寺派大本山 須磨寺副住職、小池陽人さんのご法話もよくYou Tubeで拝見している。

少し前ならば、わが家の檀那寺とは宗派も違うし、600Km近くも離れた須磨寺の副住職さんにご縁があるはずもない。

小池陽人さんは、若くてかっこいい。

そのまま大河ドラマにもいけそうな、と思っているのだけれど、中身はもっといい。
やさしい語り口で、お年なりの、明るい先を感じさせてくれる、いつも心に残るお話をしてくれる。

私自身は、祖母、父母の日常を通じて、昔から農村社会を支えてきたお釈迦様の教えを、習慣という形で、知らないうちに学んできた。

でも、朝から晩まで家にいないサラリーマンになった私には、子たちになにも使えることができなかった。
家族、みなばらばらの生活だ。

自分の過失を、若い世代に安易に申し送るのはダメだけれど、陽人さんのような若いお坊さんが、宗派(教えを学ぶ便法)を超えてお釈迦様の教えを広めてくれれば、多少は、日本人の心にも明かりが灯るのかな、最近は、そう思っている。

そんなご縁で、ある番組の中で紹介されていた坂村真民氏の詩集を買い求めて、毎朝数作品を読んでいる。

心がザワついているとき、気持ちが塞いでいる時には、ビタミン剤のようにじわっと来る言葉に出会う。

これ、なかなかいい。

著作権もあるのだろうから、全文を紹介はしない方が良さそうだけれれど、今朝は『生きていく力がなくなるとき』という詩に励まされた。

「死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなるときがある
・・・」

という短文。

そう思っているのは、自分だけではないんだと気付かされた。

どんな自分だって、それをうけとめて生きる、ってことは、その日々が大変なことである。

合掌拝

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和3年、初訃報

2021年01月28日 | 読経の日々

先日の地域の総会で、役上がりにはなったものの、今年は、ご近所の『班』というまとまりの『班長』の役が回ってきた。

「お互いさま」で成り立っている字田舎地域社会だから、できることはしなくては、との思いもある。
還暦を超え、数年過ぎたが、わが田舎地域社会では、若手の方なのである。(笑)

昨日、集落の他班の先輩がなくなったという連絡が入った。

急な場合は、班長から、『言い継ぎ』という指示を出して、口頭で十軒近くの皆さんに周知する。

新型コロナウイルスの関係で、今回も、会葬を遠慮したい、という施主様の意向で、亡くなったことのみを周知した。

亡くなった先輩は、85歳で、私の親世代といってもいい。

わが家は今でも、パッとしないけれど、子供のころは事情もあってとくに困窮していた。

そんな時、いつも気にかけてくれた方だった。

自分自身の気持ちの整理のためにも、もし可能ならば、ご遺体に最後のお別れをしたい、そんな思いで、昨晩、電話してみた。

「今まだ家にいるから、来なさいよ」
との奥様のご返答をいただき、ご自宅に伺い、お別れしてきた。

ご主人は、もともとお顔だちのよい方だっけれど、横たわっているお顔は、観音様だった。

人は死んだら、骨になり、風化して終わり。

死後の世界、極楽・地獄、転生などよく解らないことが多いのだけれど、この思いは、少しお釈迦様の教えを紐解いてみた今も変わらない。

それでも、人が死んだらどこへ行くか?
分かったことは、生きている人の心の中に、その人を思ってくれた(好きだっった)人の中に行き続けるのかもしれない、そんなに思い至った。

不徳を積み重ねれば、その人への周囲の思いは、子孫に向かう。

極楽・地獄、転生というのは、今、この一日の問題のような気がする。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いとこの訃報にせっし

2021年01月17日 | 読経の日々

シルバーバイトのお昼休みに、携帯電話がなった。

登録のない番号には、基本、でないのだけれど、住居地の隣街の市外局番だったので、応答した。

隣街に住む母の妹の息子さんの奥さんからで、「実は・・・」と切り出した話は、昨年末にご主人(私のいとこ)が亡くなって、コロナ禍でもあり、お正月でもありと配慮し、家族だけで送った。
長い間お世話になりました、という訃報だった。

昨年の今頃、他のいとこの息子さんが亡くなったという電話連絡を受けたときも、「ねえちゃん、なにいってんの?」とすぐに状況を受け止められず、適当な慰めのことばもでずシドロモドロだったけれど、今回も、驚きで適当な言葉をかけてあげることもできなかった。

もともと他人とのお付き合いを上手にできる人間ではないけれど、いくつになってもだめだなぁと思いつつ、シルバーバイトの現場から車を走らせてきた。

今日訪問して、お焼香をさせてもらおうと思ったのだけれど、今回のような形でご葬儀を済ませた場合、奥様もようやく落ち着きを取り戻し、現実を受けとめて、気持ちの整理をし始めている頃だと思う。
だから、近い関係者に連絡と挨拶をしているのだろう。

訪問をすれば、ご主人の過去の話題に涙を流し、別れがますますつらくなる。
きっと奥様には負担だろう。

少しの御香料に手紙を付けて郵送することにしよう。
そう思って、午前中、隣街の大きな郵便局の窓口まで車を走らせてきた。

コロナ禍の中で家族葬等会葬を伴わないご葬儀が多くなってきた。

人間関係は、煩わしい一面もあるけれど、冠婚葬祭のお付き合いもまったくなくなってしまうと、あまりにもさっぱりしすぎだ。

寂しくもある。

出会った者は、いずれ必ず別れがあるわけだけれど、なんでも急がつくのはつらかったりする。

残されたご家族のみなさんが、いとこの思いの中で、前向きに暮らしていけることを願いたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーソーの法則

2020年12月24日 | 読経の日々

今朝は3時過ぎに目がさめてしまい寝付けなかったので、そっと起き出して菊谷隆太氏のYou Tubeチャンネルで、『心の三毒』の話を聞いた。

毎日の習慣として仏壇の前で唱えている懺悔文(さんげもん)の中にも出てくる「貪 瞋 痴」。
これが『心の三毒』と言われるものだけれど、この内の「貪」(貪り)をわかりやすくシーソーの法則という図で解説されていた。


(上図は、先程思い出してイメージを自作したもの)

「俺が、俺が」と我利我利亡者をしていれば、目先の利を得ているようでも、人間社会では孤立化し、自分の利(幸せ)を失っている。

他利を習慣化、実践していけば、結果的に他から感謝され、自分の利となる。

今年に入って、真言宗の天野こうゆう法話チャンネルもときどき拝見するようになった。その影響で、仏壇への毎朝のご飯とお茶のお供えは欠かさないようになった。

以前祖母、母が行っていたこういう行為を、意味のないものと関心もなかったのだけれど、これなども、自分が食事をする前に、他(ご先祖)に与えるという習慣化ではないかと思う。

食事が済んだ後、仏壇から下げたご飯は、外の鳥などに施す。

現在の人は食物連鎖から外れた生き物である。
他の生き物のように、狩られて食べられるということはない。
勢い慢心に陥りやすい。

外の鳥などに施すのは、自分の腹が膨らんだら、他にも施すことを忘れないための習慣化なのだろう。

怒りや妬みという心も、次々と生まれてきてなかなか穏やかに過ごせない。

でも、こういった『心の三毒』があることを知った上で、日々自分と向き合い暮らしていくことがラクに生きる方法なのだろうと思うこの頃である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする