2月13日 サンデーモーニング
北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)あたりは、
森林資源が豊富な上に、
世界三大漁場に数えられていてカニ、サケ、ウニなどが豊富なところである。
日本が北方領土の存在を知ったのは17世紀、江戸時代だった。
当時、北海道は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれていた。
1644年に松前藩が作成した地図には択捉島が認識されている。
択捉とはアイヌ語で“岬のあるところ”という意味。
当時日本は鎖国の最中だったが、18世紀ごろになると、
ロシア帝国の船がたびたび択捉島付近に来ては交易を要求してきた。
これに危機感をつのらせた幕府が、
幕臣、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)に北方の調査を命じる。
近藤重蔵が択捉島に標柱を建てたところから、
幕府は択捉島までを日本の領土とした。
日本政府が北方領土を、“わが国固有の領土”と主張するのは、
1855年に締結された日露通行条約の内容によるもので、
国境が確認され、択捉島までが日本の領土と決まったのである。
樺太(サハリン)はこの時は決まっていなかった。
明治になって、1875年樺太千島交換条約が結ばれ、
千島列島は日本の領土に、樺太はロシアの領土になる。
日露戦争に日本が勝利したことにより、
1905年のポーツマス条約では、日本は南樺太を譲り受ける。
その後、ロシアはソビエト連邦に変わる。
第二次世界大戦で日本は敗戦し、
ソ連軍は攻め込み北方四島、千島列島を占拠した。
1951年安フランシスコ平和条約で、
日本は樺太と千島列島の権利を放棄するが、
ソ連軍はそのまま北方四島まで実行支配した。
1956の年国交回復後、1991年にゴルバチョフ大統領が来日してからは、
首脳会談が頻繁に行なわれるようになった。
ロシア連邦に変わった現在も交渉は続いているが、
ロシアは強硬な姿勢をとっている。
北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)あたりは、
森林資源が豊富な上に、
世界三大漁場に数えられていてカニ、サケ、ウニなどが豊富なところである。
日本が北方領土の存在を知ったのは17世紀、江戸時代だった。
当時、北海道は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれていた。
1644年に松前藩が作成した地図には択捉島が認識されている。
択捉とはアイヌ語で“岬のあるところ”という意味。
当時日本は鎖国の最中だったが、18世紀ごろになると、
ロシア帝国の船がたびたび択捉島付近に来ては交易を要求してきた。
これに危機感をつのらせた幕府が、
幕臣、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)に北方の調査を命じる。
近藤重蔵が択捉島に標柱を建てたところから、
幕府は択捉島までを日本の領土とした。
日本政府が北方領土を、“わが国固有の領土”と主張するのは、
1855年に締結された日露通行条約の内容によるもので、
国境が確認され、択捉島までが日本の領土と決まったのである。
樺太(サハリン)はこの時は決まっていなかった。
明治になって、1875年樺太千島交換条約が結ばれ、
千島列島は日本の領土に、樺太はロシアの領土になる。
日露戦争に日本が勝利したことにより、
1905年のポーツマス条約では、日本は南樺太を譲り受ける。
その後、ロシアはソビエト連邦に変わる。
第二次世界大戦で日本は敗戦し、
ソ連軍は攻め込み北方四島、千島列島を占拠した。
1951年安フランシスコ平和条約で、
日本は樺太と千島列島の権利を放棄するが、
ソ連軍はそのまま北方四島まで実行支配した。
1956の年国交回復後、1991年にゴルバチョフ大統領が来日してからは、
首脳会談が頻繁に行なわれるようになった。
ロシア連邦に変わった現在も交渉は続いているが、
ロシアは強硬な姿勢をとっている。