3月9日付 読売新聞編集手帳
日本文学研究者のドナルド・キーンさん(89)が
三島由紀夫と文通していた頃である。
あるとき、
三島が
「鬼院さま」
と戯れに書いてよこした。
キーンさんは仕返しに
「魅死魔幽鬼夫さま」
と返事を書き送ったという。
往時を回想した随筆集、
『声の残り』(朝日文庫)に書き留めた挿話にある。
漢字を使ってこれほど自在に軽口の応酬ができる人だから、
みずから命名した味のある雅号も、
別段、
驚くにはあたらないことなのだろう。
8日付の官報告示で日本国籍を取得したキーンさんは、
記者会見で
〈鬼怒(キーン・ド)鳴門(ナルド)〉
という雅号を披露した。
鬼怒川の「鬼怒」と四国の「鳴門」を組み合わせたという。
日本を愛するがゆえに永住を決めたというキーンさんの気持ちは、
この雅号にも表れていよう。
ひねくれた目で読むなら、
「鬼が怒鳴(どな)る門」とも読めそうである。
温容な紳士のキーンさんに対して礼を欠く読み方ではあるが、
どうだろう。
生まれ育った国に別れを告げてまで被災地と寄り添おうとする人の生き方は、
がれきの処理にさえ協力したがらない人々にとって、
鬼に怒鳴られるよりも胸にこたえるかも知れない。