
人は、なにかに出くわしたとき、自分の身の処し方を考えます。
かかわるか、放っておくか、見て見ぬふりをするかなどです。
人間は、基本的に利己主義であり、自分の利害関係、つまり、自分にとってメリットになるか、そうでないかを判断して、行動する。
このように言う人もいます。
たとえば、給食のときに、配膳されたおかずを食べ終わらないうちから、余っているおかずを取りに来る生徒を見たとき、おかわりしたいと思っている生徒は、「ずるい」と思ったり、言ったりするかたがあります。
しかし、おかわりを望んでいない生徒は、何も言わなかったたり、黙認するかもしれません。
また、中学生が昔も今も、先生に求める態度で一番にくるのは、「えこひいきしない先生」「どの生徒も公平に扱ってくれる先生」だといいます。
したがって、子どもがたくさん集まり、いっしょに生活する場面では、「公共性」という価値観を高めることが重要であると考えます。
自分には直接のメリットはなくても、それを守ることが巡り巡って自分たちの利益につながるような仕組みが、クラスや学年のなかに築かれていることが、「公共性」だと、私は考えます。
そのような文化・習慣を、本来、私たちはもっていると考えます。
しかし、昨今、車を追い抜かれたからと激怒して、相手を追い回す事件が話題になります。
あまりにも、気持ちのゆとりをなくしていると思われる事件が散見されます。
私たちは、いま、子どもたちに「公共性」を学ばせたい。
いじめを止めるとか、傍観者にならないとか、よく話題になります。
人はだれかをいじめるのはしかたないことだと考える人もいるでしょう。
しかし、今年度の3年生は、「いじめは、どんな理由があっても、許されることではない」と考える生徒が9割を超えています。(平成29年度全国学力学習状況調査より)
学校だからこそ、子どもたちは「公共性」を学び、体得していく機会があると思うのです。
この意味で、「いじめZERO」などの生徒の自主活動は、生徒から忘れられつつある「公共性」を引き出す活動として、おおいに意義があります。