箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

新聞記事がもつ一定の信頼性

2020年09月08日 06時40分00秒 | エッセイ

新聞の発行部数は下がり続けています。これは購読数が減少し続けているからです。

夕刊の発行を停止する地方紙が多くなっています。

インターネットが普及したのが大きな要因だと思います。

私は、2000年に入ったころ、まだわが家にはインターネット環境がなかったのを覚えています。

それからほどなくして、インターネットをひきました。

おりしも、新聞の発行部数は2000年入ってしばらくがピークだったそうで、ちょうど日本社会にインターネットが普及しだした時期と一致しています。

インターネットのおかげで、新聞を購読しなくても、容易に様々な情報を得ることができるようになりました。

いまや「新聞を読む」というのは、人びとの生活の中でルーティーンワークではなくなりました。

まして、いまの若い人は「子どものころからウチの家ではずっと新聞をとっていませんでしたよ」という場合も多くなってきています。

中学生に夏休みの宿題で、「新聞記事を切り取って、その記事について自分の感想や意見を書いてきなさい」という課題を出します。

すると、新聞をとっていない家庭の子にどう対応するかを、学校は考慮しなければならない時代です。

そのような状況です。
ただし、新聞はその存在価値がなくなったのかといえば、私はそうは思いません。

インターネット上の情報は危ういものもたくさんあります。それをもとに、人びとはSNSやツイッターで自分の意見を発信するようにもなっています。

個人が自由に発信できるのはいいと思うのですが、都合のいい情報だけを取り入れ、それを根拠に自分の意見を表明することが問題です。

これを続けているうちに、社会の秩序をつくっている規範は崩れていくように、私には思えます。

その点、新聞はそれ相当の事実確認を行ったうえで、記事にしていますので、その情報は一定の信頼性があります。

ただし、新聞も、読者は気をつけなければならない点はあるように思います。

記者が「これを記事にしたい」と思うとき、取材をした記録の中から記者の主張にあうものだけを新聞に載せるのではないでしょうか。

反対の見解や記事にしたい論調にあわない取材内容は載せない。

そして、その記事を読んだ読者は「そうなんだ」と思わされ、世論が形成されていく。

この点には気をつけ、「批判的思考」で新聞を読む必要がありそうです。

また、新聞の見出しは、読者に記事の概要を伝える、読んでみようという意欲を高める大切な役割をもったフレーズです。

しかし、陳腐な表現もたくさん見出しに使われています。

例えばプロ野球の試合結果を伝えるとき、いまだに広島のことを「コイ」、ライオンズを「獅子」と読んだりしています。

「コイに飲み込まれたトラ」などがそうです。

プロ野球ファンが日常的に野球の話をするとき、「コイ」や「獅子」という言葉を使うでしょうか。現実から遊離しています。

また、見出しにつまらないダジャレや語呂合わせを入れている場合もあります。そのダジャレはオヤジギャグ的なものが多く、若い人の共感を呼ばないような「さむーい」表現を使っています。

今月では、京都市の高瀬川彫刻展を伝えるのに、鹿の造形を川の中に展示したいう記事に対して、「川に入るシカない!?」というつまらない見出しが出ていました。


こんなジョークは、人びとがいま使うでしょうか。なぜダジャレを使わなければならないのでしょうか。見出しをつけた人だけが、ひとり悦にいっているように思えます。  

また、密を避けるため屋外展示にしたそうですが、鹿の造形は川の中に置かざるをえなかったのでしょうか。

ダジャレを使うために、無理矢理こじつけた言葉でないのか。 


このように、新聞にも「これでいいのだろうか」と思う疑問があります。

しかし、記事の公平性はかなり保たれている点、様々なジャンルの情報を集めている点で、人々が情報を得る手段として、新聞は有用です。

新聞は、今も今後も、一定程度信頼のおけるメディアであると思います。


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