日本は伝統的に人びとが「がまん強さ」に価値を置いているように思えます。
たとえば、地震などの自然災害で避難所を開いたとき、個人にはプライバシーがなくても、「災害時だからみんながたいへんなんだ。がまんしよう(がまんしなさい)」となります。
避難者と避難者の間にプライバシーがなく、ごろ寝の状態でした。
もっとも、これは最近の避難所では改善されてきましたが、それまでは多くの人が「しかたない」と思っていました。というか、全体的に意識が低かったのだと思います。
女性の方から「着替えるのを見られる」などの声が上がり、みんながプライバシーの概念に気がついたのでしょう。
がまん強いのもいいですが、がまんし続けるのでなく声を上げることが大切です。
また、がまんをして「やればできるのだ」という根性論も健在です。
自分次第で、やる気があればもごとは成就させることができるというものです。
それが自分の中でおさめているのならまだしも、他者にも強いる傾向があるようです。
なかでも「えらい人」が部下に「がんばりが足りないのだ。やればできる」とだけいうのは、「えらい人」が責任を投げ出していると考えることができます。
やる気次第でできるのなら、「えらい人」は何もしなくていいからです。
「たいへんなのは、あなただけでない」という教えもよく使われます。
「あの子は車いすでもあれだけがんばっているのよ。(それにくらべればあなたは恵まれているじゃない。)あなたもがんばりなさい」というのは、問題の解決にはなりません。
いま、その人がたいへんなのであって、他と比べても解決にはなりません。また、「あの子」にもおこがましいです。
「あの子」がたいへんだと感じているかどうか、恵まれていないと感じているかどうかは他の人がきめることではないからです。
日本の学校教育でも、おしなべて子どもたちに困難なことを乗り越える強さを身につけてほしいと願い、それを子どもに強いる傾向があると思います。
その力を身につけることは大事ですが、それを目的にするのではなく、むしろ子どもがいろいろと経験をしていくなかで、結果として困難を乗り越える力が身につけばいいのではないでしょうか。
日本の学校教育でも、おしなべて子どもたちに困難なことを乗り越える強さを身につけてほしいと願い、それを子どもに強いる傾向があると思います。
その力を身につけることは大事ですが、それを目的にするのではなく、むしろ子どもがいろいろと経験をしていくなかで、結果として困難を乗り越える力が身につけばいいのではないでしょうか。
特に若い頃は
我慢なのか?努力なのか?見失うことも多かったかもしれません。