今の日本では、多様性(ダイバシティ)や包摂(インクルージョン)の取り組みが、以前よりも進んできました。
それらは学校教育の中では、人権教育で、とくに大阪では集団づくりの分厚い取り組みとして、実践されてきました。
「ちがいを豊かさに」という多文化共生教育で外国につながる児童生徒を集団に据えた在日外国人教育教育。
障害のある子とない子がともに同じクラスで学習したり生活を送る障害児教育。
男女が対等な立場で共に生きる男女共生教育・ジェンダー平等教育。
被差別地域の児童生徒への学力保障・進路保障を核とした集団づくり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
などの、分厚い教育実践があります。
少数派(マイノリティ)の抱える人権課題は、多数派(マジョリティ)が生みだしている。
平たく言えば、差別される人がいるのは、差別する側の問題であるという考え方が人権教育推進の基本的な考えです。
さて、マイノリティについて、社会の意識も変化が出てきています。
たとえば、東京パラリンピック以降、企業が選手を広告に起用することが増えてきました。
SDGsを進める企業からの投資も増えてきました。
SDGsのシンボルであるピン・バッジをスーツの襟元につけたビジネスマンをよく見かけるように、「我が社はSDGsを推進する企業です」という打ち出しも盛んです。
そのような企業の取り組みは、今の企業活動のあり方が社会貢献が評価されるという時代背景を受けています。
企業としてのイメージアップにもつながります。
一方で、ダイバシティやインクルージョンのかけ声が響く中で、社員の中には「やらされ感」をもつ人も増えているのが現実ではないでしょうか。
「上司に命じられたから」という理由で、本意ではないが取り組みに加わっている人もいるようにわたしは思います。
以上のことより、日本社会でのマイノリティ尊重をめぐる意識は、前進と後退を繰り返しているのです。
その繰り返しの中で、「ゆらぎ」も出てきています。
国会議員の問題発言、ヘイトスピーチ、インターネットへの人権侵害書き込み、パワハラ、セクハラなどは、そのゆらぎの表出と考えることもできます。
そもそも「わたしはマイノリティ」「わたしはマジョリティ」のように、きっちり区分できるものではないのです。
「わたしは学校の成績がよくないから、学力マイノリティ」「わたしは勉強ができるからマジョリティ」と仮にしたとします。
でも、勉強ができても運動が苦手な場合もあります。その人は「運動マイノリティ」と感じるかも知れません。その逆もあります。
エレベーターを使わないと電車に乗れない車いすの人なら障害者というマイノリティ。でも車いすを使っていなくても、階段を上り下りするのがたいへんな高齢者もいます。
ですから、どんな人もマイノリティであったり、マジョリティであったりするのです。
わたしたちにとって本当に必要なのは、マジョリティの立場ととマイノリティの立場の両方で、どちらかだと「平面」としかみえなかった世界が立体的にみえてきます。
そこから新しい人間関係がうまれることを知ること、つながりが生まれることでないかと思うのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます