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大阪では、大阪モデルの「赤信号」が灯り、「不要不急の外出は控えてください」という呼びかけが知事によって行われました。
また、中央政府でも「不要不急」が新型コロナウイルスの感染拡大防止のポイントの一つとして、官僚がこの言葉を使います。
追随して、東京都知事も「不要不急の外出は自粛をお願いしたい」と発言しました。
この呼びかけは、もっともなことです。人が移動すればするほど、感染リスクは高まります。
ただ、「不要不急」は、社会が認めない、または社会的にみて価値がない場合は、個人の行いや行動は制限されるという考えに基づいています。
たとえば、私の家の近くの山には、休日になるとハイキング客を結構な数で見かけます。
また、近くにバーベキューができ、キャンプもできる施設がありますが、夜間は冷え込み、かなり寒いのに、やはり何人かの人が来ています。
もし、このとき足を滑らして怪我でもしたら、世間ではきっと言われます。
「よりによって、こんな時期に不要不急のレジャーに行くなんて。だからこんな目にあうのだ。自業自得だね」
でも、本来、「不要不急」であるかどうかは、本人以外の外部の人がきめるようなものではないと思うのです。
個人が「これをしたい」という欲求をもち、「これをすること」に大きな価値を置いているときに、外側の価値観を持ち出し、「やめておけ」と止める。
「不要不急」は、人にとやかく言われてきまるのではなく、自分できめていいものだと思うのです。
また、それとは別に、「不要不急って基準があいまいで、よくわからない。もっとはっきりさせて! 何をしたらよくて、何をしたらダメなの?」というネット上の書き込みがあります。
それについては、それぐらいは自分で考え、判断してほしいと感じます。それぞれの人が、自分の価値観で、良識をもち不要不急かどうかを決めたらいいと思います。
この点を見据えたとき、学校教育の課題は、常識と良識をもち、自分の価値観や直感を大事に、他者を尊重し、自分で考え、判断する人を育むことでしょう。
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