す以前(昭和のころ)は、電車内で子どもはよく大声で泣いていました。
それでも、親御さんは平然としていた人が多かったですし、まわりの乗客も「子どもだから仕方ないね」という受けとめでした。
また、デパートでは親から離れてしまった迷子がしょっちゅういました。よく館内放送で迷子のアナウンスが流れていました。
たとえば「黄色の帽子をかぶった3歳ぐらいの男の子が、お母さんをさがしておられます。お心当たりの方は○階の総合案内所までお越しください。」
このような放送がしばしば流れていました。
その後時代は移り、迷子になる子はめっきりと減りました。
子連れの親はマイカーで移動することが増え、電車利用も減ったかもしれませんが、電車利用はおもに都市部では移動手段として健在です。
迷子が減ったのは少子化で子どもを連れていても、親御さんの目が行き届くようになったからかもしれません。
時代の流れとともに、「親がしっかりと自分の子をみているべき」と周りの人は考えるようになりました。
そしていまや、電車やバスの中で子どもが泣くと、周りからの視線には厳しいものがあります。
冷たい視線や顔をしかめた表情が、親に突き刺さりそうです。「あ〜あ」という周りの人からはため息も聞こえてきそうです。
だから、親御さんは必死でなだめて、泣かないようにあやします。
それでも泣いてしまった場合に申し訳なさそうにしている親御さんが気の毒です。
泣かすと、「親は何をしてるねん!」と言われかねません。
なぜ周りの人は、こうも子ども連れに対して厳しくなったのでしょうか。
昭和の頃は、みんなにもっとゆとりがありました。
もちろん車内で睡眠をとりたい人もいるでしょう。子どもが好きでない人もいるでしょう。
それでも、「子どもやからしゃーないね」と、人は他者に寛容だったはずです。
ところが今は、みんながひたすらスマホを見て、さわり、自分の世界に浸っています。
他者に話しかけることはほとんどなく、無言の人が大半です。コロナ禍による感染防止のため会話を控える人も増えました。
静寂を邪魔するヤツは許さん。
失敗したら叩かれる。
でも子どもはそんなこととは関係なしに無邪気に生きています。
お腹がすくと泣きます。暑ければむずがります。じっとしているのが長くなれば、動きたくなります。
不寛容社会では、人は多くの点で生きづらさを感じると思うのです。
失敗は許されないのでしょうか。
でも、失敗せず生きれる人はいません。
人はまちがいや思いちがいや感ちがいもします。
それでも自分も含めて、他者には寛容でありたいのです。
「このことは、こう決まっているもの。なぜそうしなかったのか」と相手を責める人が増えました。
でも、そんな人は自分や身内に甘く、他人には厳しいこともよくあります。
思い通りにいかないのが世の中であり、失敗したり、うまくいったりして、行ったり来たりしながら、失敗して後悔しながら奥歯をかみしめながら生き、他者にも寛容なのが生きるということだと思います。