日本で正体不明のウイルスが広がりました。
病院の医療スタッフや患者たちにも感染、病院がパニック状態に陥ってしまいます。
感染拡大は病院内だけに留まらず、仙台、大阪、広島など、全国各地に広がり始めました。
このままウイルスが蔓延し続けると日本は崩壊し、世界へ拡がれば人類は滅亡するという恐るべき事態が近づいてきました。
病院内隔離、地域封じ込め政策、都市機能・交通機関の停止、政府が機能不全、そして消えゆく人類・・・。
このようなストーリーでした。
科学万能と言われる私たちの現代社会ですが、科学をもっても対応しきれない正体不明のウイルスの出現を予見しているような映画でした。
さて、新型コロナウイルスは、目に見えない敵のようなもので、このとき文明社会がいかに脆弱であるかを、私たちに知らしめることになっています。
政府や自治体から、さまざまな「自粛」が要請されています。
そもそも「自粛」は命令ではないので、強制力はないのですが、従わないと何かあったとき、批判されます。
ですから、自粛には事実上の拘束力・強制力があり、そこには個人の自主性は隅に追いやられてしまうことが多いのです。
ただし、これは日本に特徴的にあらわれる権限のしくみでないかと思います。
つまり、「要請」する側と「自粛」する側のどちらが結果の責任を負うかが、あやふやになるのです。
ところが、西洋社会ではそれ相当の強権で「こうしなさい」と指示されても、従わない人がけっこう多いようです。
この点で、日本社会と西洋社会は対照的です。
ただ、だから日本はダメだとは言えないところが、このウイルス対策の難しさです。
日本ではみんなが自粛したから、現在、感染拡大がこれでも一定程度防ぐことができているとも考えることができるからです。
この無責任な日本的あいまいさが、効果を出しているとも見ることができます。
どう考えるかは、人それぞれなのでしょう。
ただし、社会が市民全体に対して求める規律に、個人が自分を押し殺すことが普通になると、私たちはちょっと心配になります。
黙って従う大衆、いわゆる「サイレントマジョリティ」が定式化すると、ふと気がついたときには、今まで慣れ親しんできた、個人が自由に発言でき、行動できる、私たちが慣れ親しんできた社会とは、似ても似つかぬものになってしまっていることをあとで知ることになる危険性を、私は思います。
みんなが黙って従うことが続くと、抑圧された個が解放を求めるのが本来です。
それが人間です。
集団の規律を尊びながらも、個人が声を上げることができる。「自分」というものを確かに持っている。
しかし、独りよがりではなく、他者の考えや自由や自主性も尊重して、協調して共に生きていく。
第二次世界大戦後、日本では、一貫してそんな人を学校教育で育てようとしてきたのです。
このようなことを、私は教育関係者の視点から、いま思い巡らせています。
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