たとえば、病院での診察の場面を考えます。
以前なら、お医者さんは首から聴診器を下げて、触診したりしていましたが、最近ではパソコンの画面を見ながら、患者さんとやりとりをするのがふつうになりました。
でも、その傾向はなにも医療だけではありません。学校もよく似てきています。
調査やテストを何度も行い、数値化された子どもA、B,C・・・。
極端に言えばこうなってきています。
その数値が子ども自体であるかのように思い込み、決めつけてしまう。
「このテストからわかる結果は、子どもの学力や生活の一部であって、すべてではありません」と言いながらも、客観的なデータが何よりもその子をはかる根拠のように優先されていきます。
また、学校の平均点がその学校の学力として、教育活動の優劣をはかる証拠のように扱われます。
そういった最近の傾向に、私は戸惑いを覚えざるをえないのです。
また、子ども本人も、学校の教職員も、数値化されたデータがあたかも、自分のすべてであるかのように思い込んでしまう魔術があります。
そのことにより、自分というものを固定的に見てしまい、ある子は「どうせぼくは勉強できないし」と自分の可能性を見限ってしまうことがあります。
または、「クラスでいちばん勉強ができるわたし」という虚像の自分をつくっていくこともあります。
しかし、こと教育に関しては、Aさん、Bさん、Cさんではなく、「生身の人間」としての愛子さん、板東さん、チャールズさん・・・を育んでいるというとらえ方が、大切なのです。
子どもは一人ひとりがちがっていて、学力も家庭での生活も異なっています。
家庭背景を踏まえ、その子の本当の姿をしっかりと把握せずに、どのようにして一人ひとりを伸ばすことができるかと、わたしは考えます。
教師は、一人ひとりの子どもの「実像」を、多面的・多角的に読み解き、理解して、子どもと向き合うことが役割です。
一人ひとりの子どもは、平面的なパソコン画面や、1枚のシートに収めることができないのです。人間なのです。
この子はいまの学力はこのあたりだが、最近の家庭での「自主学習ノート」へのとりくみ方を見ると、いまに学力は向上する。
その子は「ほうきをもってきなさい」と言ったら、ちりとりもいっしょにもってくるという、よく気がつく子だ。
あの子は、演奏が難しいクラス合唱のピアノ伴奏に自ら名乗り出るチャレンジ性をもっている。
子どもにとってそれぞれのもちあじを生かすことができる様々な場面やフィールドが学校の中にはあるのです。
学校とは、そういう空間・場所です。
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