Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

亀井三千代 HP/Michiyo Kamei official web site 

https://michika-6.wixsite.com/michiyokamei

夏休み終了です

2016年08月31日 10時03分38秒 | 日記


台風、川崎には来ませんでした。

一雨ごとに秋の気配が増し、
私の夏休みも終わったように感じます。

制作も再開
スクエアの小品を描き始めました。





茶墨の薄墨で、もやもやを味わうように

現在、玄林堂さんの墨を使っている。
茶墨はほんとうにやわらかな赤い色で
とてもとても気に入っている。

墨のことをはじめて教えてくれたのは
やはり上海在住の恩師で、
何年も前になるが
何本かの墨をすってみせて

「これは青っぽいでしょう?」

「ね?これは赤みがかってるでしょう?」

「あ、う~ン…そうですか」
って実は違いが全く分からなかった(笑)

それは、私の目が鈍いせいもあるだろうけど
墨自体に個性があることに最近気がついた。
墨と硯、すりかた。紙と水。

粘りがでるまですれ、と教えてくれたのは
私よりずっと年下の(年上のような)作家さんだった。
ちゃんと守っています。


言葉にすると、墨へのこだわりのように聞こえるかもしれないけど
この全体が私の作品に対して、
自然と一体になっていれば良いので窮屈ではない。

で、
今回玄林堂さんの「紫墨」というのを買ってみた。
シボクって読むんですかね?

紫って何?(笑)

届くのが待ち遠しいです。





ところで、
以前一緒に活動していた仲間同士がSNSで
政治のスタンスを巡って
口論になっている。
一つのスタンスを持つのは良いことだが
原理主義的になっちゃって
異なる意見に耳を傾けることができなくなるのは何故だろう。

同じスタンスの者同士が集まり、その中で否を唱えるものがいないと
閉じた鏡のように自分ら自身が見えなくなることがある。
そんな状態でスローガンを掲げても他には伝わらない。
誰かが、
議論している相手を論破するには、相手が何を良いと思っているのか、それを理解しなくてはで論破できない、
と言っていたがその通りだと思う。

世に何かを問うのは大事なことだけど
同時に問うている自分を客観視できるような
平たく言うと、
ちゃんと「それはおかしいです」と突っ込んでくれる良い仲間を持ち、
一呼吸置いて、耳を傾けることも大事なことだと思います。


猛暑の日々

2016年08月22日 08時38分39秒 | 日記


オリンピックでドラマティックな今年の8月
都美館で地味にバイトをしていました。

公募展受付のバイト
ずいぶん前に話が来たとき、8月のイメージが全く出来なくて
なんとなく受けてしまった。
暑かった~~、から人が来なかった~~
ので一日座ったまま仏像(半眼)のようになっていた。

時々、ハオッハオッと動物園の獣の声がする
都美館の搬入口に行く道すがら
木々の生い茂った小径を歩く
蝉の大合唱だ。

毎日上野に通うので
遊びの予定も積極的に入れた。
OLさんたちがアフターファイブにわくわくするってこんな感じ?
これからまた引きこもるので
会える時に、会いたい人と会っておきたかった。

バイトのおかげで
普段ゆっくり話せない大切な友人達と会うことができた。


25年来の親友とアート談義、
年下なのに何故かずっと上に感じるお姉さんたちと泣きながらカラオケ(笑)
(ていうか溜まりに溜まった愚痴を、一気に受け止めていただきました。感謝(;。;))

そして尊敬する女性作家と夜間「ポンピドゥセンター展」+マックで2時間アート談義
上海から恩師も戻ってきていて、オリンピック見ながら
日本酒とくさやでちびちび…ああ極楽。

オリンピックは…どうなんでしょう
以前よりも本音のコメントが多い気がした。
泣きながら「やめたいこともあった」とか「苦しかった」とか
「メダルをとらなくてはいけないのに」とか。
解説の増田さんも「私はダメな選手で…」とか(@_@;)??
弱音を吐くな!
って言われてそうなのに

人としてごくごく当たり前な、自然な発言に親近感を覚えた。

卓球は自分が出来ないので今まであまり興味がなかった。
愛ちゃんの応援に見る程度だったけど
今年は男子卓球が、がぜん面白くてはまった。
この歳で卓球をやりたくなるくらいだから
オリンピックを子供が見て、将来の選手が育つのは分かる気がする。

…アートはどうなんでしょうねぇ(^_^;






「オデッセイ」考2

2016年08月12日 20時50分52秒 | 映画


見事な擬態、と言いたいけれど育ちすぎ!!笑
わかりますか?
枝よりもはるかにぶっとい
食欲旺盛な我が家の クワエダシャク

とはいえやはり気がつかず、枝かと思って持っちゃった(@_@;)
ぐにゃっ!ときて初めて気がついた
ずいぶん葉っぱをやられました。





ところで、
前回の続き
悪役の出てこないSF映画「オデッセイ」で
登場人物が全員能力の高いエキスパートで、力を合わせて目標を達成するが
美術・芸術はどうか、というところだった。
映画のストーリーが壮大なので、こちらも壮大に考えてみた。

「美術・芸術は人類から必要とされているか」
という問いを立て次に
「絵を描いている私は人類から必要とされているか」
と問うてみる。
全く必要とはされていませんね・笑

必要とされるには、何かに貢献するしかない。
それには、自分が何に貢献できるか考え行動するしかない。
大きく構えすぎかもしれないが、
この貢献は人類に対する貢献であって
社会貢献とは違うものでありたい。

新しい視点、見過ごされているもの、
今の常識に対する異議申立
それが単なるエゴを超えれば
必ず共感・協力を得ると思うのだが甘いだろうか。

そして思うに、全員にその気概があれば
(せこい下心なしに)

足を引っ張りあってる暇はないだろう。
そして、自分ができないことをやっている
同じ志の人と組むのだな~んて
ありえないのでしょうけど、諦めませんよ。





ところで、先ほどの問い
「美術・芸術は人類から必要とされているか」と日本人に問えば
ほとんどの日本人はYesと答えるだろう。
じゃあ
「美術・芸術はあなたにとって必要か」と問うならばどうだろう?
もちろんそこには「どのように必要か」という問いも含まれている。
そしてそれが

「哲学はあなたにとって必要か」という問いに
置き換えることが可能なことを
どれだけの人が了解してくれるだろうか。

(理屈っぽくて疲れるので、続く)


Bulbophyllum-大きな花

2016年08月11日 18時49分34秒 | 作品紹介


カバー画像を変更しました。

「Bulbophyllum-大きな花」岩絵具・膠・アクリル・洋紙 
2007年 1303×970mm 亀井三千代

この作品は2007年、韓国のアートフェアKIAFに出品し
韓国人の蘭のコレクターが買ってくれた。

まだ和紙ではなく、洋紙に岩絵の具・アクリルの混合技法で描いていた。
画面手前の花を脳に見立てて奥には頭蓋の断面図を組み合わせた。

この「組み合わせ」という考え方は、
今では良いのかどうかは疑問だ。

できればもう安易に「組み合わせずに」描いていきたいと思っている。

日本画の技法自体にコラージュ技法が内在しているように思う。
でもコラージュではなくレイヤーと捉えて、ずれながらも連続した画面を作っていきたい。




「オデッセイ」考1

2016年08月03日 18時20分59秒 | 映画


座の会の後半、夏風邪を引いて微熱が下がらず
終わってからもしばらくは体調不良が尾を引いていた。

また、終わって早々に座の会の会合があり
結局会合というものは、声の大きい人が勝つわけで
そこに割って入るには相応の声で喋らなければならず
またまた翌日から具合が悪くなる。

暑いし、しんどい。

描いていないと ますますしんどいので
制作の合間、地味に残暑見舞いのカードを作ったりしている。

また、展覧会後の楽しみの一つ、DVDを借りて映画三昧の日々。
「オデッセイ」観ました。
原題は「THE MARTIAN」2015米

悪役が出てこない。
「ゼロ・グラビティ」も同じだった。
善悪の戦いではなくて、孤独や自分との戦い。
何だか良い時代になってきたと思った。

スポ根もの、ライバルと闘うとか相手に打ち勝つとか、
人をおとしめるとか勧善懲悪とか、きっともう古いのだ。
そんな古い図式が、無駄に人の根性をねじ曲げたり
情熱を削いだりするのだ。
共通の目的を持つなら悪者はいらないのに。

ただし、これらの映画に共通する点はもう一つ、
優秀な人間しか出てこない・笑
宇宙物理学の天才だとか、各分野のエキスパートしか登場しないので
人間のレベルが高すぎる。
好きなことや研究に没頭できる恵まれた人は
その全能力を他者との共通の目的、大いなる任務に使うことが喜びなので
仲間を助けるとか、協力することしか考えていない。
人をおとしめるのは自分の首をしめることと同じなのだ。

絵画はどうなんだろう。
美術や芸術は?

(続く)