アドラーの心理学というのがブームらしい
この本を読む気は全くないので
名言集にちょっと目を通したが
私には、息苦しい言葉のオンパレードのように思われた。
もちろん、ちゃんと本を読めば違うのかもしれないが。
「嫌われる勇気」って、そもそも嫌われた経験は山ほどあるので
私にとっては「いまさら?」
疎外や中傷、不利な条件を押しつけられた時の怒りは
制作やものを考える糧になってきた。
だから逆に、人から好かれると居心地悪い時もある。
適度に距離を保ちながら
作品について議論できる関係がいい。
互いに誤魔化すことなく批判し、叱咤激励しあえる関係がいい。
相手を褒め合うばかりのゆるい関係には
残念だけど、意味を見いだせない人間になってしまった。
ゆるい優しさは無責任だと思うことがあるのだ。
厳しくすると、それが自分にも返ってくるので
自分にゆるい人は、他人にもゆるい。
そのゆるい人のアドバイスをそのまま鵜呑みにしていると
あとで「え?」という事態になることがしばしばある。
その時に、そのアドバイザーを恨んでも意味がない。
鵜呑みにした自分が悪いのだ。
ママ友とか職場とか、たぶん向いてない。
嫌な人間かもしれませんが、引きこもり人生で良かったです。
ツイッターをしていないので
ここに揚げても意味ないかもしれませんが
若冲展* じっくり観るためのノウハウ書きます。
昨日夜間、じっくり観てきました。
18時15分頃から並び始め、
約2時間後に入館しました。
拡声器では「160分待ち」と叫んでおられましたが
実際はもっと短いです。
また、列はけっこう動くので連れ合いがいれば退屈しません。
20時ころ、
入口までたどり着き、チケットチェックをしてもらったら
皆小走りに会場へ突入(笑)
当然、絵の前は人人人…
絵の下部は見ることができません。
ですので、まずはどこにどの絵があるか、ザックリチェックしながら(小走りに)まわります。
21時少し前、
全部見終わったらエレベーターでもう一度はじめの階(ロビー階)に戻ります。
ガラガラです。
観たい絵を独り占め気分で、観たいだけ鑑賞できます。
要するに、一回見終わって戻ると
時間的には、並んでいた人は全員館内に入っているんですね。
それ以上人が入ってこないので余裕で鑑賞できるわけです。
さすがに1階「釈迦三尊像」「動植綵絵」のフロアは
多少混でいましたが、絵の下部まで見ることができます。
昨日の閉館時間は21時半のアナウンスだったと思いますが、
実際はもう少し長く開館していたかもしれません。
おすすめのノウハウは勇気を持って
19時すぎから並びはじめること。
一緒に並んだ主人は「19時半でもいいんじゃない?」
それはちょっと怖いな。
また日中は暑くてキツイです。
夕方の方が涼しいし、昨日は月もきれいでした。
それと、これは私の勝手な解釈ですが、
夜見る絵だなぁと思うんです。
もちろん若冲は初めてではありませんが
並んででも 観に行って良かった。
絵画の解釈が二次元の普遍に触れている、
説明できない”妙な前後関係”による”妙な空間”が随所に見られます。
昨日の日中は、人人仲間の作家さんと共に
画廊やアートフェアをまわりましたが
コンセプト重視、販売重視、デザイン重視(どれも悪いことではありませんが)で
二次元という奇なる異次元に触れようとする絵画、
私にとってそれは正統派絵画、別の言い方だと「極上の狂った絵画」 は、
なかったように思います。
シメは若冲の狂った極楽
帰り際のビールも極上でした (^_^)
注:列を見ると萎えるので、チケットは予め買った方が精神的には楽かと思います。
制作を開始し、体調も復活。
要するに展覧会が始まると会場につめるので
その間外出し、絵が描けないから体調不良になるらしい(飲むし)。
もしかしたら、
ずっと家にいてずっと描いてるのが理想なのかもしれません。
展覧会前にはそのような理想的な状態続いて
私は「一人合宿」なんて呼んでいますが
引きこもれることはなんて幸せなことだろう。
上海に行った恩師は
たっぷり引きこもり、仕事をせず、人と言葉もあまり通じない環境の中で
絵のことだけを考えることは、これは必要なことだと
実感をこめて言っていたが
よくわかる。
時々日本に帰ってくると
あまりに人と話していないので「口の筋肉が動かない!」(笑)
そこまでか!
ところで、
先日部屋の大掃除をして
大量のゴミを出し、一旦はすっきりしたと思われたが
もう元通りになっている。
なんでも、我が家にステイした春妃* (チュンフェイ、上海画家村の画家)は
「亀井さんの家は汚い」と中国で皆に言っているそうで
え~!?それはないでしょ(@_@;) と思ったけど
確かに嘘ではないかもしれない。
無理かも知れない。
その片付け中に発見したワーグナー* とシベリウス* のCDを聞き返している。
特にワーグナーは医科歯科に居る頃に
安いヘッドホンで聞きながら解剖、スケッチに集中していた。
今、良いスピーカーで聞くと改めて身体中がぞわぞわする。
マジで人間ってすごいな、と思う。
音楽というものがこの世にあって良かった
、とそんなふうに思ってもらえるような絵が描けたらいいのだけど…。
♪ Sibelius - Belshazzar's Feast, Op 51 - (1/2) you tube
久しぶりに高尾山に行きました。
三十六童子にも再会( 弟にそっくり(@_@;)!
ルートは、京王線高尾山口駅から
ケーブルカーで一気に登り、そこからぶらぶら歩いて
薬王院を通過し高尾山山頂へ。
さらにそこから奥高尾へ入り城山山頂まで
そこの茶屋で食事をしてピストンしました。
高尾山は何年ぶりか。
登山自体、久しぶりです。
私の運動不足を心配した主人に無理矢理つれ出されたんです。
朝ねむいのに叩き起こされ
超不機嫌なまま電車に乗せられ
一言もしゃべらず高尾山登山口へ。
不機嫌なままケーブルカーに乗せられて
無理矢理歩かされました。
「ある意味暴力ぢゃないか!!」
と思っていたんですが
あまりの新緑の美しさに途中から無我の境地に…
天気は晴天
次第に幸せな気分になってきました。
高尾山山頂までは人混みでしたが
その先の奥高尾に入るといきなり静かな森が続きます。
まるで天国のような城山山頂付近
八重桜が1本だけ咲いていました。
城山山頂の茶屋では定番のナメコ汁と
味噌田楽、冷やし甘酒をいただきました。
これまた極楽
なんとか蜂にも出くわさずに下山しましたが
やはり身体はなまっていてきつかった!(>_<)!
ところで
薬王院 のそばにこのような方々がおわします。
薬王院手前の斜面に、まるい植え込みを挟むように無数に点在しておられます。
この童子たちの お腹ぽっこりは何でしょうねぇ…
怒り顔の方もいらっしゃいます(笑)
高尾山はミシュランの星がついてから
すっかり観光地化してしまいましたが
れっきとした霊山、修験道の修行の場です。
(滝に打たれている人を見たことがある)
山頂まではさまざまなお参りスポットがあり
いろんな方々がいらっしゃいます。
とか
(@_@;)
もっと空いていれば
写真を撮りながら歩くところですが
とにかく人、人、人…
薬王院近くの茶屋では高尾ラーメンを食べました。
これも以前は無かった。
もちろん美味しかったですが、
登山の後は、何食べても旨いからなぁ
ある意味冷静でないというか。
それから高尾山口駅隣りに温泉(極楽湯)ができていた。
この人混みではさぞかしお風呂も一杯かと思っていましたが、
レモンの湯、とか炭酸温泉とか、内湯、露天と
たくさん種類があるので
窮屈な思いはせずにゆったりお湯につかれました。
とにかく見所満載で奥の深い 高尾山
不機嫌も怒りも吹っ飛びます(笑)
是非お参りに行ってみて下さい。
夕方の川崎大師
せめて歩かなくてはと散歩しました。
引きこもり、
読書、片付け、プラン立てなど充電中でした。
こんなことばかりしていると肥えてしまう。
それに、こんな本を読んでも
話に付き合ってくれる相手もいない
まぁ、仕方がありません。
録画してあった映画を観る。
「ベルリン・天使の詩」(Der Himmel über Berlin 1987、Wim Wenders 仏・西独)
これは20代の頃、映画館に観に行った思い出深い作品…
のはずでしたが、ほとんど忘れていました。
ストーリー
霊的存在(無限)の天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ Bruno Ganz)は有限である人間に憧れる。
とうとう天使をやめて人間になり、天使時代から恋い焦がれていた女性と結ばれる
「ラブストーリー」ですが、
ラブストーリーというには、あまりにも詩的で重厚
人間の本質(本質という言葉をわかったように使うのは大嫌いですが、この場合は適切か)に
触れんばかりの作品…でも名画とは、そもそもそういうものかもしれません。
映像
モノクロとカラーとの二重構造
モノクロは天使側の視線、カラーは人間の世界を表している。
物語前半(天使が人間になるまで)
天使は日がな一日、ベルリンで抑圧されたの人々の、夢も希望もない心のつぶやきに耳を傾ける。
多くの人間のあきらめに満ちた言葉が延々と続くそれは
いわば心のぬすみ聞きというか、透明化されて神さまにお見通しなわけです。
そこに、「子供は子供だったころ…」ではじまる 天使の詩* が時折挿入されて全体を繋いでいきます。
思えば、この頃のドイツは自由化のデモが頻繁に起こり
東西の歴史的な統一前夜のマグマを抱えた時期だったのですね。
(ミハイル・ゴルバチョフ/ペレストロイカ)参照
物語後半
そんな天使に飽き飽きしたダミエルが人間になり、そこから色彩に満ちた世界が始まる。
背後には今はもうない、ベルリンの壁
初めて人間と会話をかわすダミエル(左)
映画公開の二年後には壁が崩壊
結果論ですが、何か預言的な映画に思えます。
天使と人間の次元を超えた恋愛を
東西に分断された人々の再会になぞらえることもできるわけで…
というのは深読みしすぎでしょうか。
ところで
この映画を初めて見た当時は
ダミエル役のブルーノ・ガンツが
20代の私にはおじさんすぎて、
このラブストーリーにどうしても感情移入できなかった(笑)
ヴェンダースは当時人気の監督だったが
私には、微妙な作品として記憶に残っていました。
今この作品を、とても面白く鑑賞できるということは
私も歳をとったということですね。
天使のおじさんも、今ならとても魅力的に見えます!
(余談ですが、自分にとっての天使は誰だったんだろう、
なんて考えたりもする。そうすると、あの人も天使だ、この人も天使だ、
と天使だらけだったりする・笑。幸せなことです)
*「ベルリン・天使の詩」 わらべうた 原詞 ペーター・ハントケ Peter Handke
第1章
子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った
子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔
第2章
子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?
第3章
子供は子供だった頃
ほうれん草や豆やライスが苦手だった
カリフラワーも
今は平気で食べる
どんどん食べる
子供は子供だった頃
一度は他所(よそ)の家で目覚めた
今は いつもだ
昔は沢山の人が美しく見えた
今はそう見えたら僥倖
昔は はっきりと
天国が見えた
今はぼんやりと予感するだけ
昔は虚無におびえる
子供は子供だった頃
遊びに熱中した
あの熱中は今は
自分の仕事に 追われる時だけ
第4章
子供は子供だった頃
リンゴとパンを 食べてればよかった
今だってそうだ
子供は子供だった頃
ブルーベリーが いっぱい降ってきた
今だってそう
胡桃を食べて 舌を荒らした
それも今も同じ
山に登る度に もっと高い山に憧れ
町に行く度に もっと大きな町に憧れた
今だってそうだ
木に登り サクランボを摘んで
得意になったのも 今も同じ
やたらと人見知りをした
今も人見知り
初雪が待ち遠しかった
今だってそう
子供は子供だった頃
樹をめがけて 槍投げをした
ささった槍は 今も揺れてる
(日本語版字幕より)