みどりの野原

野原の便り

9月27日 ミズアオイ

2016年09月27日 | Weblog
以前、稲渕の棚田に植えられていたミズアオイがジャンボタニシによってダメになったと聞いた。
先日案山子を見に行った時には植木鉢に植えられたミズアオイが1鉢”置いて”あった。(9月23日ブログ)

移転先を教えてもらっていたので見に行ってきた。
場所がちょっとわかりにくく、一度目はわからず、もう一度聞いてようやくわかった。

 
       ちょうど満開 濃いブルーの花が美しい。

ミズアオイは昔は田んぼの雑草だったそうだ。
 
ネットでは『水路の改修や除草剤の使用などによって生息環境が悪化し、個体数が減少している』とのことで、環境省RDBでは絶滅危惧Ⅱ類』に。
奈良県では絶滅種となっている。・・ということは自然では完全になくなったと考えられているということ。
だから「植えたものしか見られない」ということ。

1年草なので種蒔きから開花まで世話がかかるだろう。
周辺の整備なども含め、地元の人のお世話があって美しい花を見られありがたいと思う。

ミズアオイは万葉集に4種詠まれているとのこと。
よく聞く歌に『醤酢(ひしおす)に 蒜(ひる)樢き合(か)てて鯛願ふ 我にな見せそ水葱(なぎ=ミズアオイ)の羹(あつもの)』があり、普段に食されていたようだが、あまりおいしくはなかったらしい。
その他『青紫色の花を摺り付けて染めた・・』との歌もある。
(小水葱、子水葱 水葱=コナギとの説もあるらしいが・・)

稲作と共に渡来した植物らしいが、奈良県にいつごろまであったのか? 飛鳥にも昔はあったのか?
知りたいがわからない。
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9月27日 山の辺の道 黒塚古墳~長岳寺~柳本郷墓~崇神天皇陵~景行天皇稜~巻向駅

2016年09月27日 | Weblog
柳本から纏向まで。よく歩く道だが、説明を聞きながらゆっくり歩いた。

 
黒塚古墳 3世紀後半~4世紀築造と推定される前方後円墳 後円部で長大な竪穴式石室が発見され、副葬品の33面の三角縁神獣鏡が発見され話題となった。纏向遺跡や箸墓古墳と共に邪馬台国畿内説の根拠とされる。
      黒塚古墳展示館にも入り、石室内の実物大復元模型や少しずつ形の違う三角縁神獣鏡を見学。
この辺りは江戸時代、柳本藩の陣屋があったところで、黒塚古墳や周濠も陣屋の一部として利用されたため今見る黒塚古墳は古代とは違っているとのこと。
陣屋の名残という石垣が見えた。
陣屋の建物の一部は橿原神宮に移築され文華殿(重文)として残っている。

 
近くには家老屋敷などがあったという通り、商家が連なっていた通りもあり、その雰囲気も感じられる。
1万石の小藩で財政の苦しかった柳本藩は商人を執政に取り立てるなどし、士農工商の身分制度も形骸化していた面もあったらしい。

 
 有名な五智堂  長岳寺への道標や太神宮灯篭や庚申塚もある。


近くには猿田彦大神をまつる石碑が2か所にあった。
猿田彦は道案内の神だそうで、道祖神として祀られていることもあるそうだ。

長岳寺
室町時代が最盛期で江戸時代には規模がだいぶ縮小したが今の仏像がたくさん残っているとか。
山門の横に四国88ヶ所のミニ霊場があった。

柳本郷墓
 
江戸時代の記録では周辺10ヶ村の共同管理墓地。 神仏習合を示す2つの鳥居がある。
古い形式を残した墓もいくつか見られる。
「三昧聖」という言葉を初めて聞いた。

 
 文化元年(1804)行基1050年忌に建てられたという行基菩薩供養塔 前に棺台がある。
硬い石材を使用して彫り込まれた文字はくっきり残っている                     永徳3年の記銘のある墓石など他にも古い墓石が見られた。亀甲と書いた墓石もあったが何かな?

午後は柳本古墳群へ。

 
その1つ、考古学的には行燈山古墳といわれる山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)(10代崇神天皇陵) 

 
少し離れたところにある 渋谷向山古墳(12代景行天皇陵)

渋谷向山古墳を崇神天皇陵・山辺道勾岡上陵を景行天皇稜と逆に言われていた時期もあり、今のようになったのは幕末の「文久の修陵」と呼ばれる古墳整備事業以後のことらしい。
崇神天皇は168歳で亡くなったと古事記の記録がある。反対に言われていた。実際にはどうなのか?
どちらも陵墓として宮内庁の管理で立ち入ることはできない。

ところで、わざわざ恥をさらさなくてもいいんだけど、欠史8代とは1代から8代と思っていたバカな私である。2代綏靖天皇から9代開化天皇までのことだった。でもなぜ神武天皇が入っていないの?
間違いに気づいてよかった。

天皇陵が神格化されるようになったのはここ100年ぐらいのことだとか。
人々は御陵内の柴や周濠の水を農業用水に利用するなど様々な形で利用してきた。
文久の修陵の際、藩の要請で周濠を広げたり(崇神天皇陵)そばの溜め池を周濠に取り込んだり(景行天皇陵)しているそうだ。今も周濠は水利組合が管理しているとのこと。
景行天皇陵では文久の修陵の跡という石垣が垣間見えた。

その後、穴師大明神の鳥居・柿本人麻呂の屋敷跡を見て巻向駅へ。
柿本人麻呂の存在を疑問視する説もあるとのことを知る。

今まで見ていなかった細かいことも見聞きできてよかった。
私のことだから、いつものことながら、聞き違いや勘違いがあるかもしれない。
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