行ったことがなかった「富雄丸山古墳」
西ノ京から歩けるって? 考えたこともなかった。
西ノ京駅で降りるのも久しぶり。
左松並木を行くと「薬師寺 北門跡」の看板があった。
境内はここまであったようだ。
そして、左折して養天満宮参道へ。
養天満宮は近鉄線踏切を渡るったところ。
参道が近鉄線に分断されているようだ。
養天満宮 初めて来た。静かな境内。
養天満宮 本殿 御祭神は菅原道真公
『平城遷都により薬師寺が飛鳥から移建された頃、「寺内外十三社」の1つとして創建されたという』
社叢は奈良市指定文化財(天然記念物)に指定されている。
住宅街の中にあって、シカの影響を受けず「原生林」のような森が広がっている大変貴重な空間。
境内を抜ける。・・・
住宅地の1角に「瑠璃宮跡」の表示板
孝謙天皇の離宮がこのあたりにあったそうだ。
平安遷都で衰退して廃墟になったらしい。
そこから右折左折 富雄川を渡り・・・
赤膚山に来た。
赤膚山元釜 古瀬堯三窯を見学。
庭に陶器が使われているのも窯元らしい。
入った所はショップ 奈良絵の付いた陶器などが並んでいた。
ここから裏へ抜ける。
「赤膚」の由来は平城京の造営で山の木が大量に伐採されて(赤い山肌が)赤裸になったように見えたこと。
「赤膚焼」は豊臣秀吉の弟、倭大納言の秀長が、赤膚山に常滑の陶工与九郎を招いて茶器を焼かせたことに始まる。
現在の赤膚山元釜は、天明の頃、京都から赤膚山に入り、茶人としても高名な大和郡山城主柳沢保光(堯三候)の意向を受けて赤膚焼きを再興した「治兵衛」を祖とする。
登り窯が3つ。これは一番大きい窯
大中小全部の窯が使用可能な窯というのが評価されて、大型登り窯(江戸後期)と中型登り窯(昭和初期)は国の登録有形文化財に登録されている。
窯の中を覗く。
左が小型の登り窯 右が中型登り窯 その右側に大型の窯がある。
軒下には薪がたくさん準備されていた。
登り窯から山道を少し上がった所 見晴らしがよく、若草山も見えた。
古瀬堯三窯を出て・・・イオンを通り抜け・・・・
道路に富雄丸山古墳への案内
この山の向こう側なのか? 警備員さんもいた。
まもなく、丘陵の下に到着。
先発集団の説明が終わるのと交代して、丘の上へ。
フェンスには説明板が付けられている。
ここなのか~。土嚢を積んだのが見える。
資料の図を見ながら説明を聞く。
土嚢を積んだところが「造り出し部」らしい。
その奥が円墳の部分のようだが・・
そして左の方には最古の湧水施設があったらしい。
現場を見てもピンとこない。大きさも感じられないが・・
どんなところか見に来れてよかった。
富雄丸山古墳
1972年(S47)団地造成のための発掘調査が行われ、円墳の中央部に埋葬施設(粘土槨)・木棺が見つかった。
2023年(H29)日本最大の円墳(3段築成)であることが判明。
直径109m 円墳としては全国最大。墳丘は3段築成の円墳で北東部には「造り出し」が付いている。
墳丘の埋葬施設は激しく盗掘されていたらしいが、その散乱の中から出土品もあった。
そして、京都国立博物館や天理参考館の所蔵品の中にも丸山古墳出土と確認されたものもあるのだとか。国の重文に指定されているものもある。
「造り出し部分」も3段築成で、ここにも埋葬施設があり、木棺が確認されたと聞いてびっくりした。
(歴史に強くない。他の古墳の「造り出し部」でも埋葬施設があることがあるのかな)
2023年。その造り出し部の木棺を覆った粘土層から出土したのが「蛇行剣」
全長237m。剣身はうねうねと蛇行する。
日本最古最大のものと言われる。(橿原考古学研究所で見たことがある)
現地で「実物大の蛇行剣」のコピー(継ぎ目なしのコピーにビックリ)を見せながら解説してくださった。
同じく、造り出し部から見つかった「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」
これも前例の無いものだそうだ。
そばの公園を下る。
ホコリタケが並んでいた。老菌
下った所が若草台中央バス停。
学園前から帰る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます