みどりの野原

野原の便り

12月18日 飛鳥歴史サークル

2007年12月18日 | Weblog
「こんなところ初めて」「こんな道通ったことないわ」
飛鳥に住んだこともあるのに、今日の大半は知らないところ。
歴史サークルのベテラン部員さんにはいつも感心する。

狂心の渠(たぶれごころのみぞ)
飛鳥座神社のそばの水路、これは斉明天皇が作らせた大溝の跡で、
幅10m・深さ1.3m 香具山の麓から天理まで総延長1km
何万人もの人夫を使って運河をつくり、舟2百隻に石上山(天理)
の石を積み流れに沿って引かせ何万人もの人夫と時間を費やして宮
の東の山(酒舟石あたり)に石垣を作らせた。
人々はそれを非難して「狂心の渠」といったという。

今日のコースの何箇所かにこの渠の名残があった。
目の前の狭い水路からは想像しにくいが、かつての渠の大きさと
その様子を想像すると、なんと壮大なものだったことだろう。

高低差があるため上流へは運河のように堰を作ってだんだんに舟を
上げていったらしい。

  
     狂心の渠 名残1・2・3  これでは想像しにくいが
・・・

大伴夫人の墓
天武天皇の夫人(ぶにん) 夫人とはたんなる妻の意味ではないと
いうことを教えてもらった。
後宮の地位の順番を表す。位の高い方から皇后(きさき)・妃(みめ)
・夫人(ぶにん又はおおとじ)・嬪(みか)・采女(うねめ)・宮人
(みやびと)とあるそうだ。

主人が謀反を起こしたりした時、その地位によって責任の度合い?が
違ってくるとも聞いた。

竹田遺跡
去年発掘作業が行われていた何枚もの田んぼは見事に元の田んぼに
なり、収穫後の冬田になっていた。
今発掘している田んぼで技師の方にお話を聞くことができた。

今までには10棟ぐらいの建物跡が出土。去年は1辺1m近い柱穴が
見つかり皇族か高位高官の邸宅跡かと考えられている。
新田部皇子の邸宅?
墨書土器なども出土しているらしいので、整理が進めばもう少し
はっきりしてくるだろう。

八釣(やつり)マキト古墳 
八釣の村を登っていくと数基の古墳の石組みが復元されていた。
石が数個の直径1メートルにも満たないような子供の石室?もあった。
こんな小さい古墳ははじめて見た。
八釣マキト古墳は6・7世紀の古墳で尾根筋に年代順に作られていた。
馬具や耳飾なども出土したらしい。発掘当時には天上石はすでになく、
そのままの形で移築されたもの。


      八釣マキト1号墳
こんなところにこんな古墳があるのは全く知らなかった。

弘計皇子神社
ここもはじめて行った。
雄略天皇に父を殺害された弘計(をけ)皇子(弟)・億計(おけ)
皇太子(兄)の兄弟は逃げていたところから見つけだされ、それぞれ
後に23代顕宗天皇・24代仁賢天皇になる人だが、皇位争いで
親兄弟も殺し合いだまし合いの世にあって、この二人は仲良し兄弟
だったらしい。
先に兄が天皇になるところを譲り合って、弟が先に天皇になり、亡く
なった後、兄が天皇になっている。
皇位を譲り合っている間、叔母さんがしばらく代行したという。
めずらしくほのぼのとした話を聞けた。

山田寺跡
ずーっと前に来たときは狭い場所だったのに、今は広~い公園に
なっていた。
吹きさらしの公園で石碑を風よけにして弁当を食べた。


         山田寺跡の公園

山田寺は石川麻呂の発願で643年に金堂が完成したが、皇太子
暗殺の罪を着せられ、追われて逃げ込んだ山田寺の拝殿石の上で
妻子ら8人とともに自害したそうだ。(ひどい!)
その後冤罪が晴れて造営が続けられ、44年の歳月をかけて寺は
完成。

その後、興福寺金堂が消失した時、僧兵が山田寺の本尊を強奪
(なんてことを!)
復興した興福寺金堂に安置したが、再度の火災で本尊は頭部だけ
を残し焼けてしまった。
放置されていたものが発見され、波乱万丈のご本尊は「山田寺仏頭」
(白鳳期の国宝)として興福寺国宝館に安置されているという。
(やっと落ち着かれました)

壮大な規模の寺だったらしいが、土石流によって崩壊したそうだ。
今、東の山手を見ても土石流など起こりそうもないが、地形も今とは
違っていたのだろう。

昭和12年東回廊のエンタシスの柱や連子格子などが横倒しのまま
で、ほぼ完全な形で発掘され、飛鳥資料館で復元されている。
寺の規模を彷彿させるような立派なものだ。

大官大寺跡
飛鳥の大寺院だったという。文武天皇の時には9重の塔や金堂が
完成した。
特に九重の塔は高さ68m 法隆寺の塔の倍の高さと聞いて驚く。

残っていた金堂・塔の礎石は明治22年の橿原神宮の造営に使わ
れたらしい。
平城遷都で寺は大安寺へ移され、旧寺も大火で消失し今は土壇し
か残っていない。

このあたりに田んぼを持つ同期のUさんの話
このあたりは一面田んぼで昔の風景とはほとんど変わっていない。
田んぼの下には遺跡遺構が広く埋まっており、このあたりの田んぼ
では耕運機のロータリーを深くして耕すと石にあたり刃が欠けるので、
浅くして使うという。

小字(あざ)にはいわれのある名がたくさんある。
大安寺・阿弥陀堂・堂の西・塔ノ井・阿弥陀堂・金焼トノキタ・講堂
などなど・・
きっと地中にはいろんなものが埋まっていることだろう。

塚などや昔の遺物らしいものは、「さわるとタタル」と手をつけない
らしい。
それで字(あざ)の名なども合わせ、発掘のきっかけになったりする
こともあるという。

 
        昔と変わらない風景

その他
・奥山久米寺跡(はじめて)・湯笹福井大明神の四方竹・日向寺
(にっこうじ)(はじめて)・天岩戸神社 畝尾都多本神社・
奈良文化財研究所など盛りだくさんの遺跡を回り中身の濃い一日
だった。

飛鳥には目に見えない歴史がいっぱい埋まっている。
知って想像しないと何も見えない。

追加 コメントをいただいたAさんは今日のコースが子供の頃の遊び場だったそう。奥山久米寺でもよく遊んだとのこと。
 
奥山久米寺
飛鳥期の瓦が多数出ているが調査が進んでいないそうだ。

  
久米寺13重の石塔         塔の基壇部分のすり鉢上の穴は何?

歴史的な意味があるのかと思ったら、子供が遊びで草をつぶしたりして遊んだ穴だそうだ。
歴史の達人Nさんは「子供の時によくやったなあ」となつかしそうに教えてくださった。ひょっとしてAさんもこの遊びに加わっていたのでは?
飛鳥の子供は知らず知らず飛鳥時代とふれあっているのね。と感慨を持った。










コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 12月17日 天満宮周辺 | トップ | 12月19日 パソコン教室 &1... »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
行ってみたい (ミッチャン)
2007-12-19 21:15:58
今日はいいお天気で良かったですね
機会があれば連れてってね
返信する
ミッチャンへ (みどりの)
2007-12-20 09:30:32
たまには平地歩きも付き合ってくれたらうれしいわ。
返信する
懐かしいで~す (明日香の女優)
2007-12-20 14:09:28
歴史サークルさん御苦労さまです!
今回の歴史サークルさんのコースが女優の幼少期の遊び場でありまして大官大寺跡の横の道がそろばんを習いに行っていた道であり、奥山が実家で奥山久米寺が実家の浄土の寺で13重の石塔の横の庭で「鬼ごっこ」や「下駄隠し」をしていた事を思い出し懐かしくなり、年内の実家の墓参り(大官大寺跡近くの法然寺)の時に歩いて行ってみま~す。
返信する
明日香の女優さんへ (みどりの野原)
2007-12-21 10:00:07
ほんとに~。
あなたのコメントを見て、18日の記事をちょっと追加しましたので見てね。
返信する
追加記事拝見しました (明日香の女優)
2007-12-22 16:35:23
 ままごと遊びはよくしていました。草を採って料理したつもりで瓦の破片を器にしてゴザの上で食事タイムといった具合でした。基壇の穴に水が貯まっていて泥を入れて手でこねていたのは記憶していますがそのままにして家に帰っていました。最近の子供たちは神社やお寺では、遊ばなくなったのでしょうね!少しさびしい気がします
返信する
明日香の女優さんへ (みどりの野原)
2007-12-22 18:35:57
なつかしいですね。
お墓も遊び場でしたよ。
返信する
屋就(やつき)神社 (笠縫の貴公子)
2008-01-13 15:25:03
~聖徳太子と矢継ぎの森~
(中川 明1970「子どものための大和の伝説」)
昔、聖徳太子が、住むのに適した場所はないかと、南から西北の方向に矢を放つと、矢継ぎの森に落ちました。太子は、未だ近いからと再び矢を放つと、現在の法隆寺の所に落ちたので、ここを永住の地と定めました。
 現在、多神社の西約100Mには屋就神社が鎮座し、「矢継ぎの森」と呼ばれています。また、近くには太子道が通り聖徳太子との深いつながりがうかがえます。
 以上 昨年4月遺跡ウォークの受け売りでした。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事