河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

まだやっている表現の不自由(加筆あり)

2019-09-10 00:44:51 | 絵画

これまで表現の問題について、言いたい放題言ったから、もういいだろうと思ったけど、最近テレビのバラエティにも登場するあのモーリー・ロバートソンまで愛知トリエンナーレの表現の問題について語るので、もう一言私も言っておこうかなと思う。

彼はハーバード出のジャーナリストで日本語も卓越している。彼の今回のものの見方はNHKでさえ触れずにスルーした「芸術表現そのもの」について取り上げているから、ここに紹介し考えてみよう。(本当は今日入手できた美術手帖に国際美術家連盟だの現代アート何々などがこの展覧会が外圧によって中止になったことに対して抗議文を掲載すると聞いたから・・・それを読んでから書くことにしようと思っていたが・・・それらしきものは存在しなかったので)

これまで私も知る限りでは、「表現の不自由展、その後」については「本質的なアート論に踏み込むことなく「表現の自由」「検閲」「反日」といった短絡的な図式に収収斂(しゅうれん)されているのが気にかかります」とまた彼は今回の展示が「政治的な表現内容」が対立を生むことには、公的資金(十数億円だって!!)が使われているかぎり「予め注意すべきであった」と国際常識も述べている。

税金が使われて問題となったアメリカの彫刻家の作品について紹介しているが、マンハッタンの連邦ビルの前に「傾いた弧」という題の高さ3.7m長さ37m厚さ6cmからある傾いた鉄板が弧を描いているオブジェがマンハッタンの忙しく働く人たちが行き来する広場に置かれて「今にも倒れそうだ」「通行の邪魔」といった苦情が殺到したそうだ。裁判までになって8年後に撤去されたと。

実は、私はこの作品を見たが、ニューヨークではなく、スペインのビルバオにあるグーゲンハイム美術館に展示されていた。アルミ板を重ねて作られたうねるように曲がった強大な建築だが、上記の寸法の作品がすっぽり入ってもあまりある空間に驚くほどであったが、コンクリートの床に錆びた巨大な鉄の塊が弧を描いて曲げられて置かれてあるのに感心した。二枚の鉄板だが確かに倒れるかも知れないと思って、倒れそうな側には近づかなかった・・・・確かにビルバオのグーゲンハイムで一番記憶に残ったのはこの「鉄板」である。この作品には「自分たちが如何に巨大建築に囲まれて不自然な生き方をしているか、そのこと自体を疑え」というメッセージが込められているとモーリーは言う。また善悪の判定ではなく、あくまで問いかけである・・・と。「多くの人を不快にさせたが、作家の信念と作品自体の強さがあった」、作品そのものに強さがあるのか、これがアートを評価するうえで重要な視点であると述べている。(グーゲンハイムが買ってくれて良かったね?)

今回の「表現の不自由・その後」展は本当にアート展としての強さ、より深い内省やひらめき、あるいは時代や私情への疑いを提供していたのでしょうか?と述べている。

彼が言う「強さ」とは、私がこれまでブログで述べた芸術作品から得られる「感動」ということであろう。ドイツの社会学者のアーノルド・ハウザーからの受け売りの「現実世界から切り離され自律している世界があると感じるほどの錯覚」があることが、この「強さ」だと言える。要するに表現の「虚構性」がハッキリと感じ認められることだ。ここが最も大事だ。

「表現の不自由・その後」展の実行委員会のメンバーから聞こえてきたのは、「展示前も後もメディア規制を受けて報道が侵害された。---また会場のセキュリティも出来ないーーー言論表現を守ること、安全を確保しながらン欄階を実施するのが愛知県で出来ないのか!!」とメンバーの小倉利丸というひとは批判している。あくまで、自分体は芸術作品をン持しているのだから言わんばかりの不満をぶっつけているが、実行委員会のメンバーには作家はいないと聞いたが、実行委員会は額の公費を浪費しながら、展覧会開催にかかる会計出納の報告も出来ていない状況で、自分たちの責任も果たさず、他者に不満を漏らすとは・・・・。

モーリーの言う「強さ」を理解するどころではない、「自分たちを特別扱いした者たちによる事業の失敗」でしかない今回の「愛知トリエンナーレ」に反省が無くて許されないだろう。「表現は何か?」「芸術とは何か?」曖昧にして「のど元過ぎるのを待つ」国民性を許すまじ!!

アートって何だ?  アートは小学校、中学校の図画工作の延長でしかない。表現なら伝える相手がいて、もっと敬意を払って物を創るべし。

芸術は虚構であるから「個人の主観」の範囲内で何を主題としても許される「思想信条の自由だ」が、客観として比べられる政治や歴史的主題の個人的解釈には必ず反動があると思うべきだ。それは表現であっても、決して「芸術」ではない現実だから。歴史や政治をテーマにすると、それは虚構ではない現実に対する批判であり、全く芸術表現の領域に値しない。

しかし、現代アートを信仰する者たちには理解されないのだろう。なんせ観念アートではコンセプトだけが大事で、「何を主題としても、どんな表現方法を用いても良い」という考え方だから。

また、なんだかんだと「表現の不自由・その後」展の出品作家連中が「展覧会の中止」を批判して「仕切り直し」を県にもう一度申し込むとか言っている。しかしまたやりたいのなら、人の税金で再度甘い汁を吸おうとせず、自分の金で(クラウドファンディングという手も使うらしい?要するに他人の金だ)やって、すこし甘ったれるのを止めたらどうだろう。「言論や表現を守る」とか言っているけど、我々の権利が法律によって守られている範囲は「公共の福祉に反しない限り」というルールで、大概のことは許されている国だ。(安倍を批判すると、そうでもないようだが)それ以上は自分たちで世の中にアッピールしないと、またレベルの高い議論を準備してからにしてほしい。社会問題を提起したいのなら「もっと勉強せえ!!」芸大出た程度の頭で何ができる。研究論文で国際シンポジュウムで問題提起して見ろ。・・・私が言いたいのは、もっと自分の行為に「責任と義務」を果たす合理的なものの考え方が必要だと言いたい。

韓国では疑いもなく「慰安婦像」とされているものを、日本語では「平和の少女像」として展示作品として選び、そのキャプションには英語で《sexual slave》と表記させたのは実行委員会(作家は一人もいなくて、元NHKのプロデューサー、大学教授、ジャーナリストとか多々)だろう。何故そのようなことをしたのか?説明も聞いていないが。抗議の大半はこの「慰安婦像」だと言われている。世の中のルールを守ろうぜ。まさか十数億の税金を食い物にしてはいないだろうね。だいたいあんなもの並べて十数億円かかるかね!!!会計報告もまだか!!

ごめん、また興奮しました。

しかし、元来自分の「個」の実感に乏しい者が多いこの国では、集まって徒党を組みたがるそして安心して、自分が何を考え、何をやろうとしているか考えなくなる。そして流される。一人で「表現の自由」と言うより、集団になれば強いと思っていると、自分を奪われることに気付くべきだ。


いっそのこと、流されるより「変人」「奇人」「はみ出し者」と思われる方を選べ。自分が自分であると感じる「主観」を大切に。


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