わざわざ「描写の絵画」と言わなければならないほど、絵画制作で第一義となるものが「コンセプト」に変わってきているために「描写」のことが忘れられ、絵画のおまけであるはずの「題名」に左右され、コンセプトに左右されている。ここでいうコンセプトはアイデアであり、観念的な制作理念のことである。美術であるはずの絵画が視覚的表現の要素から離れて、描かれているモチーフやその描かれ方に価値が第一に認められるようになれば、現代アートのところで批判を加えた「他の者がやっていない新しい表現や、モチーフ」が作り手の価値になってしまうが、いまこれが流行なのだ。
絵画の主題に言葉でさらに付加価値を与える職業の美術評論家や学芸員、美術研究者という「実際には作品を作らない人たち」が現代アートと同じ感覚で「現代美術」に要求しているのが「作品のコンセプト」である。画家が制作するうえでのモチベーションに感覚的な表現欲より、理念や観念的な展開が大事だと思い込んでいるのである。
私は現代アートと現代美術は別物で、現代アートは「美術」ではないと言ってきたが、美大芸大の教師には「混同」し、学生に区別を教えられない者が大勢いるから、この区別のない「混同」は蔓延しているのである。美大芸大の入学試験に課す試験課題は、すでに「モチーフを自由に描け」から「000を考えながら組み合わせて描け・・」とか、受験生のアイデアや説明的な意図を問うような出題が一般化している。
確かに石膏デッサンが上手いだけの者より、個人の特技が感じられる方が才能が見込まれるようにも思えるが・・・。問題の受験する側は「
興味を引いて、なんとなく良いと思ってもらえる方向」の対策をするようになるだけであり、「美術で求めあれる能力」から離れてしまうと思う。
そこで出るものがあれば失われるものがある。それが「描写の絵画」である。「モチーフを自由に描け」と求めるうちは、作者の才能に様々な要素を見いだせる。しかし見る側(試験をする側)が既に「描くことの才能」を見なくなっているように思う。それが「描写」である。そのせいだと思うが、一方で「写真的に描く」気味の悪い若い画家が登場している。モチーフを自由に描くことの究極が「写真そっくり」そして、実物そっくりだと誤解しているのかも知れないが、描写が持つ芸術性が問われない絵画が登場している。
「描写」とはモチーフの存在感を描くことである。そっくりとかとは関係ない。「本物そっくり」というのは、いかにも「素人的」であり、描く行為に「疑い」がない状態である。目の前のモチーフを「見えるままに描く」ことを写生と呼んでいる。写生は初歩的な描写の訓練であり、創作とは言えないレベルであり、「描写」はその先の行為である。これから受験しようとする者たちにどこまで要求するかは試験する側の意識の問題であるが、石膏デッサンを基準とした時代の「負の遺産」から抜け出るためとはいえ、「変わったモチーフ」を与えながら、言葉の解釈で観念的にバリエーションを求める方法は、あまりに負担が大きいと思う。
美大芸大を目指す若者には、まず第一には「紙と鉛筆」さえあれば、「虚構を作り出す面白さ」を味わうことが出来ることを教えて欲しい。画面の中に、この世にない世界を存在させる面白さは、表現を観念的に捉えている人たちには分からない。教える側がまるで評論家のような気取った立場で若者を混乱させないで欲しい。必要なのは「無いものを在るがごときにする描写力」だ。
大学へ進学した後のことを考えると、、はたして自分の進んだ道に納得できるのであろうか?もし自分の作品に対して、試験官が「貴方は何を表現しようとしたのか?」と聞いてきたら、大いに失望する。視覚的にしたつもりのものを言葉で説明することは「詐欺行為」でしかないからだ。そこに見えるもの「以下でも以上でもない」ことが自分のすべてを語っている。
美術は視覚芸術として、表現性に視覚に訴えて共感を求める錯覚を作品中に存在させなければならない。そのためには「紙一枚と鉛筆」で世界を作り出す能力が必要だ。ただそれだけだが、これを身に着けるために、60の半ばを超えて描き続けているのだから、誰かが私の作品を観た時、無言で見入ってくれることを願う。
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