・・て、「さて」とか「ところで、話変わって」という意味らしいが、自分はあんまり習慣がない表現だが、ちょいと書いてみよう。
取る詰めとかすると・・・私は結局60代半ばにして独身、女性と人生を分かち合うだけの甲斐性がなかったと、人にも言われて・・・その通りだと思う。そこで家には猫を飼うことにした。15年前の話。最初はもちろん一匹で始まるのだが、館長秘書が紹介してあげると言うから、アメリカンショートヘアの赤ん坊が生まれた家から、女の子をもらった。頼んだ条件は「一番人懐っこい子」だった。美術館の自分の研究室に段ボールに砂を入れ、カリカリも買っておいて、連れてきてもらった。思い出すとその時の「珠(たま)ちゃん」は可愛かった。私の膝の上で寝てしまって、PCに向かっていてもずっと立てなかった。終業時間になって箱に入れて帰宅した。しかしあれだけ食べたり飲んだりしたはずだが、砂のトイレには何もなかった・・・。そう半年以上たって、年の暮れの大掃除の時に可愛い雲子を机の下で見つけた。アクリルのボックスに入れて取って置こうかと思ったが、やめた。
その珠はもういない。13年目に家出してしまった。今日は猫の話だ。
家出の原因は私にある。家から駅までの馬込幼稚園のそばの駐車場に捨てられていた猫にエサを与えている女性が居て、知り合いになって、ある日、子猫が二匹捨てられていて、人懐っこい白黒とすぐ逃げる白の入ったキジトラの子だが、キジトラの方が片目がない。白黒を「晴信(武田)」キジトラを「勘助(山本)」しばらくエサをやったが、晴信はすぐいなくなった。貰われたと思う。目の無い勘助は誰からももらわれない。一緒にエサを与えていた女性が家に引き取れないか、私に尋ねた・・・うむ・・まあいいか・・・。ということで勘助が家にやってきたとき、押し入れに隠れた勘助にエサをやろうとしている彼女の頭を、珠ちゃんがやってきて、三回!、「猫パンチ」したのだ。珠は自分ひとりでいたかったのだ。
それから、東京から引っ越す時には野良猫をひらって来ては増やし、あるいは自分の家のパーキングで野良猫にエサをやっていた猫と、皆を引き連れて、島根県浜田市に引っ越してきたのだ、その時13匹。毎年4,5匹不妊手術、と去勢手術代を払って・・・。今は21匹いる。
ここまで書くのに随分かかった・・・。
この町は、港に猫を捨てる人が多いのだ。中には海に投げ込んだり、カニかごに入れて海中に沈めたりする人もいるのだ。これが東京なら即警察沙汰だろうが、中には愛護動物保護法を知らない警察官もいる。去年の花火大会の後、港で顔の汚い黒い子猫をひらった。どさくさに紛れて6号ふ頭に子猫を捨てたのだ。すぐ医者に連れて行って注射をしてもらって「花」という名前にした。以前文化の日に勝手に上がり込んできた雌猫に「文子(ぶんこ)」という名前にした。21匹だろうが、くる猫拒まず、去る猫追わず、たまにはひらう神になるだ。しかしうちに来たら、皆、名前をもらい、不妊手術と去勢は当たり前だから、金がかかる。エサ代は一日千円、私のご飯代は一日7百円。彼らの医療費は年間30万円は最低かかる。私は国民健康保険と治療代でせいぜい7万円だから・・・・。まあ、独身だから、比較するのもおかしいか?野良猫が買って上がってご飯を食べていくとか、居ついてしまうとかもいて、21匹。一番多い時には30匹ぐらいいたが、その時大人2匹死亡、子猫7匹死亡であっという間に減った。
市が公報で「野良猫にエサをやらないでください」と言っている理由に「エサを与えると爆発的に増えます」というが、これは根も葉もない役人的行政の言い方で、根拠が無くてもよいと市民に押し付け、市民を管理するのが自分たちの仕事と思っている「田舎役人」が多いからこういうことで、私とケンカになる。エサを与え、住む場所を与えても、猫は死ぬ。特に子猫は親の育児放棄、早産、死産。ほかのオスがきて食い殺す場合も。私はすでに十数匹の猫を庭に埋葬した。
猫が死を感じたら、その行動は殆ど「自殺」なのだ。突然食べ物の嗜好が変わり、あまり食べなくなり、おいしい物だけ受け入れる。これが危ない兆候だ。そして突然消える。死ぬところを見せない。もし家に閉じ込めていれば、2~3日食べなくなって餓死する。医者に連れて行って点滴しても無駄だ。
次第に私の死生観も変化してきた。猫は個人主義で、個性的、自由気まま、ルールはあるけれど妥協はしない。我が家が嫌なら、たとえ食べ物や寝る場所に拘らず出ていく。自分の嗜好、本能とかテリトリーとかを大事にする子もいて、「珠」も一か月帰ってこない時もあった。死に方が良い。誰も死ぬときは独りだ。個人責任だ。人のせいにしたりしない。私も独りだ。餓死でもいい。自殺はしないが、猫的な餓死ならあり得るだろう。静かに死を迎えることは贅沢かもしれない。
ずっと独身で絵を描いてきて、Boschの作品が最も自分に優しく、最期まで影響を受けながら過ごしたいと思うのは、猫が近くにいるせいだと思うようになった。しかし猫を描いたことはないけど。
誰しも絵を描き続けるにはテーマが無くてはならない。昔の画家には聖書やギリシャ神話の物語があったけど、現代の我々には個人の自由が最初からあるために、テーマを見つけられない人が多い。自分の外に求める人は流行りに逆らわず「観念アート」。うちに求める人は迷宮に入り込むしかないだろうが、自分に素直になるのが一番でしょう。
私は差し当たって「こういうところに生きていたい、あるいは死んだらこういうところに居たい」という気持ちの表れがテーマかな。
貴方は猫に好かれますか?
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