河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

目利きであること

2016-12-09 16:10:11 | 絵画

その1

美術品を処置する修復家には、対象作品のアトリビューション(作者特定)が判別できる「目利き」であることは、業務上最低限のレベルで求められる。余りにも低いレベルでは、印刷された版画や、果ては油絵まで持ち込まれることがある。これはすぐに依頼主に実際を報告しないと、後々問題になるだろう。後日、作品をすり替えられたという持ち主が出てこないとも限らない。これは極端な例であるが、それほど持ち主は「物」が分かっていないからだ。さらに贋作は近代現代の作品なら作者が技量がお粗末で真似されやすいものが多いから、結構な数ある。ゴッホ(ゴッホの未熟な技法に値段の高さが贋作を生む)、ユトリロ(彼自身の制作数が不明で、真似しやすい画風)、コロー(真作が2500点程度、贋作が20000点あると言われている)、ピカソ(最も簡単に材料が手に入り、描画技術を必要としない)、ロセッティ(模写をしたものが多い)・・・・デュシャンの便器(これもアメリカで古いアパートで使用中のものが手に入る)まであった。

一方で、美術史系の人たちが作品について考えるときには、まず必ず資料文献に当たる。作品を見る時間より、先に資料文献をみて判断が左右され、ほとんどの時間を他人の描いた文章を読むのに費やす。目利きであることの訓練はしないから、それがどのような能力なのか知らない。だから、かつて私がいた美術館でも学芸員は、売り手である欧米の画廊主の話をうのみにして、買うかどうか考える。売り手が先に情報を詳しく手に入れて売り込むのが当たり前だが、それを初めて聞く学芸員は感心して、それに釣られる。自ら調査せずに、相手から資料を請求しまるで自分が調べたような自信で、購入後にその作品を紹介する。相手は科学調査の資料まで添付することがあっても、それを読み解くために修復家に尋ねもしないのだ。だから工房作や、偽物を高い値段で買わされている。国の機関の公務員あるいは準公務員は過失は個人的に問われないことになっているが、目利きでなければ、国民の税金を無駄遣いすることになる。(過失ではなく不作為と言うべきかもしれないが)

19世紀しょとうに名著を残したドイツ人の美術史研究社のマックス・フリートレンダーは「美術史研究の目的はアトリビューションではないが、プロセスとして必要不可欠である」と述べて、そして「目利きである必要がある」と。彼が行った初期フランドル絵画のアトリビューションは殆どが継承されている。それより何よりも彼が称賛されるべきは、あくまで美術館の学芸員として、物に近いところで研究し学芸員としての資質を示したことである。彼は大学教師のような観念的な資料文献研究にならず、現場で作品の傍らで生涯を過ごしたことは見習うべきである。しかしこの国の学芸員は大学教師になりたがる。美術館での雑務が多いのが問題だが、イギリスの美術館学芸員が独自の研究論文を書いていないかと言えば違うだろう。要するに取り組み方の違いであろう。それで大学教員になって時間があるかと言えば違うであろう。大学で国際論文を書かない(書けない)教員もいるのだ。社会的には教授の方が、学芸員より「ずっと偉い」のは、ドイツでも同じであろうが、フリートレンダーが何故学芸員を生涯選んだのか分からないであろう。彼らが興味を持つのは教育のレベルのことであり、全く専門性がない若いビギナーの学生に足元を見られながら定年まで過ごすのである。

欧米では専門性をより加賀的にすることが求められていて、美術史研究者が度々修復アトリエを訪れて見識を積んでいることは常識となっている。これはこの国の研究者には知られていない。(時に知ったかぶりして、赤外線反射診断をバロック絵画に適用したりして、「何も見えない」とか言っている。見えるわけがない!下描きデッサンの多くは地塗りが赤色のボルス地で赤外線が反射しないからだ。まずは修復家にご相談ください)でも何かあるかもしれないと、始めるのは良いが、浅学な知識で一人で初めても何もならないので、実績を積んだ者と調査すべきである。そうやって訳の分からないことを日常化して、美術品を壊すのはまず学芸員で、次が修復家である・・・。科学調査によって、文献資料ではなく、直接的な全く新しい情報が得られて、これまで以上に図像学の解釈論ではなく、物そのものから歴史家が変わることを学ぶのである。

その2

人は絵画を鑑賞しているとき何を見ているのであろうか?よく美術館の展示室では鑑賞者のしぐさを観察した。彼らはまず挨拶パネルをしっかり読むために立ち止まる。だから入り口が混雑する。これはこの国特有の現象だ。そして次はキャプションを見る。誰の作品かを見て、解説パネルを読む。それからやっと作品を見る。展覧会入り口はじっくり、ゆっくり見ている。しかし、そのうち暗い室内の雰囲気に慣れた頃、下から斜め上に向かって眺めると次へ行く繰り返しになる。解説パネルを読む時間は作品を見るよりも時間をかけるのはどういうことだろう。まるで学芸員の魔法にかけられたように、「言葉で案内がないと分からない」という不満を述べた投書までくる。

まあ、学芸員は美術館で開催する展覧会に多くの入場者を入れる必要があるので、美術評論や解説は「主観的」であっても許されるだろう。しかし美術史研究者はそうはいかない。「学術的客観性」に基づいた事実と合理的な論理での発言、著作でなければ専門家でない我々は混乱する。美術品を見ないで文献資料ばかり読んでいる人は別にして、まじめに美術品から始めようとしている研究者はどうしようとしているだろうか?目利きにならない限り、学術的客観性は得られないから・・・・まず美術品を記憶して類推して、作家がどの様に主題を扱っているのか、時代の表現様式を個人的にどのように会得しているのかなど・・・・歴史の中の芸術観に近付かなければならない。

物の状態から入る修復家とは、異なるデスティネーションに向かう美術史研究者のプロセスも、作品を見るとき「記憶」することから始まるはずだ。この記憶は「作品に対する興味と理解」がなければ成立しない。この興味と理解は修復家と美術研究者とでは、どうやら違うようだ。しかし仕方がないとは言えない。なぜなら美術館に勤務していれば、理解不足で偽物の美術品も購入することになるからだ。

美術品を記憶する「興味と理解」は、当人の自主性の方向によっては、全く効果が得られないこともあるから解読すると・・・・。必ず美術品の「物」に当たる部分を、即物的に興味を持ち理解につなげるべきだ。考古学はとっくの昔に「考えて推測することから、科学調査すること」に変わっている。あるときシエナ派の画家が用いた金地に打つ刻印の形や大きさを調査した美術史研究者がいたそうだ。これを調べることで、同じ刻印を用いた画家の工房との関係がまとめられるだろう。こうした積み上げが、客観的証拠に基づいた歴史の組み立てに寄与する。当然、修復作業中に得られる情報はもっと多い。まずはこうして得られる情報に興味を持つことだ。そしてまた物を見ることに戻る。

「何が描かれているか」は子供でも分かるが、専門家であれば「どう描かれているか」に興味を持たねばならない。マックス・フリートレンダーは技術的なことは述べていないが、作者が「どう描いたか」に言及している。例えばリューベンスは多くの聖家族像を描いているが、人物の配置を変えることで、物語性の扱いの違いを感じさせる手法を取っており、リューベンスの制作意図を見ることが出来る。

フリートレンダーの時代は終わって、もっと科学的な時代でなければならない。そのためにも「どう描かれているか」を一歩進めて、修復家が見る目に近づくべきだ。

 


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