『かぜのてのひら』は、俵さんの第二歌集です。
ちょっと古いですが、「後書き」の中のこんな言葉が心に残っているので、ご紹介してみます。
>たとえば、心が鳴る、と感じることがあります。
哀しい風、幸せの風、日常ふと通り過ぎる風。それらが心のどこかを鳴らしては遠ざかっていきます。
一瞬だけれど、私の中に確かに聴こえた音楽。それを言葉という音符で書きとめることが、歌を詠むことなのではないか、と思います。
歌集というのは、それらを集めた音符のようなものなのかもしれません。
手にとって読んでくださった人の心の中で、もう一度音楽が奏でられたら、ほんとうにしあわせなことだと思います。
四万十に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら
写真は、記事の内容にはふさわしくありませんが、大阪府枚方市に住んでいた頃に、高いところから見おろした竹藪に降る雪です。
この日はつめたい風が、竹藪をゆっくりとゆらしていました。
風の音がかすかに耳に残っています。
ブログの文面上、読んでくださる方が読みやすいようにと思い、「後書き」の文面を私の勝手な考えで改行させていただいている部分があります。
文章は変えておりません。
俵さんに失礼をお詫びいたします。
ちょっと古いですが、「後書き」の中のこんな言葉が心に残っているので、ご紹介してみます。
>たとえば、心が鳴る、と感じることがあります。
哀しい風、幸せの風、日常ふと通り過ぎる風。それらが心のどこかを鳴らしては遠ざかっていきます。
一瞬だけれど、私の中に確かに聴こえた音楽。それを言葉という音符で書きとめることが、歌を詠むことなのではないか、と思います。
歌集というのは、それらを集めた音符のようなものなのかもしれません。
手にとって読んでくださった人の心の中で、もう一度音楽が奏でられたら、ほんとうにしあわせなことだと思います。
四万十に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら
写真は、記事の内容にはふさわしくありませんが、大阪府枚方市に住んでいた頃に、高いところから見おろした竹藪に降る雪です。
この日はつめたい風が、竹藪をゆっくりとゆらしていました。
風の音がかすかに耳に残っています。
ブログの文面上、読んでくださる方が読みやすいようにと思い、「後書き」の文面を私の勝手な考えで改行させていただいている部分があります。
文章は変えておりません。
俵さんに失礼をお詫びいたします。