初登山は、歴史の山「妻女山」へ。この妻女山、川中島合戦の折りに上杉謙信が陣を布いた処として有名ですが、実は妻女山は、ふたつあるのですが、そのことを知っている人は意外に少ないのです。
一般に知られているのは招魂社と展望台のある標高411mの妻女山。地元の人もそう呼んで久しいため、案内板もあらゆるマスコミも、多くの歴史研究家さえ、ここを妻女山といっています。しかし、この山は本当は「赤坂山」という山です。
では、本当の妻女山はというと、さらに20分ほど南西に登った標高512.8mの斎場山古墳(円墳)のある頂きなのです。ここは、麓の岩野村誌や土口村誌によると、「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」といいます。この辺りは、更埴古墳群といって相当数の古墳のある場所なのです。
この頂は、第四次川中島合戦の折りには、上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれています。さらに西へ尾根を700mほど下ると、謙信が夜にはそこで休んだという堂塔があったといわれる薬師山があり、現在は瑠璃堂と呼ばれるお堂が建っています。そこへ行く途中に御陵願平という平地があり、往古はそこに古代科野国の祖、科野國造の妻といわれる会津比売命を祀った会津比売神社があったともいわれています。しかし、上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれ、後に麓にひっそりと再建されたということです。謙信が休んだのは、ここではないかという説もあります。
大河ドラマで再び脚光をあびそうな妻女山ですが、多くの観光客や歴史マニアが、展望台のある赤坂山を本陣のあった妻女山と勘違いして帰っていくのはなんとも忍びない想いがします。第四次川中島合戦については、第一級史料が無く「甲陽軍艦」「北越軍記」などの軍記物や「上杉家御年譜」などを参考にするしかないため詳細な真相は不明ですが、それでも最近の研究では、全てが絵空事ではなく、事実と脚色とを注意深くより分けて史実を解明しようという流れになってきているそうです。国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻では、江戸時代には使われなくなった甲州の方言が記されており、『甲陽軍鑑』は偽書ではないという分析をされています。信玄と謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法などは、江戸時代の創作がかなり入っています。
地元に古くから伝わる伝承も、研究対象に充分なることと思われます。さらなる研究が進むことを期待します。
◉詳しくは、私の研究ページ『妻女山の位置と名称について』をご覧ください。
◉「妻女山」「斎場山」への行き方
◉川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)
■第四次川中島合戦
1561(永緑4年)
8月8日・・・上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発つ。
8月16日・・上杉謙信が信濃海津城西の妻女山(斎場山)を占領し陣馬平、堂平、千人が窪に兵を置き布陣する。
8月18日・・謙信出陣の報を受けた武田信玄が一万八千の軍を率いて信濃川中島に出陣する。
8月24日・・武田信玄が信濃川中島に到着、雨宮の渡し西岸付近に布陣し、謙信の退路を断つ。
8月29日・・武田信玄が八幡原経由で広瀬の渡しから信濃海津城に入城する。
9月09日・・武田信玄が軍議を開き、席上山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策。
9月10日・・【第四次川中島合戦】
上杉謙信が亥刻(22時頃)妻女山を下り濃霧の中、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。
武田軍別働隊一万二千が子の半刻(01時頃)既にもぬけの殻となった妻女山へ進撃。
信玄は八千の兵と共に八幡原に布陣。上杉謙信が急襲し合戦となる。
武田信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が川中島合戦で戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。
詳しくは、モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。
一般に知られているのは招魂社と展望台のある標高411mの妻女山。地元の人もそう呼んで久しいため、案内板もあらゆるマスコミも、多くの歴史研究家さえ、ここを妻女山といっています。しかし、この山は本当は「赤坂山」という山です。
では、本当の妻女山はというと、さらに20分ほど南西に登った標高512.8mの斎場山古墳(円墳)のある頂きなのです。ここは、麓の岩野村誌や土口村誌によると、「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」といいます。この辺りは、更埴古墳群といって相当数の古墳のある場所なのです。
この頂は、第四次川中島合戦の折りには、上杉謙信が本陣を置いたため謙信台と呼ばれています。さらに西へ尾根を700mほど下ると、謙信が夜にはそこで休んだという堂塔があったといわれる薬師山があり、現在は瑠璃堂と呼ばれるお堂が建っています。そこへ行く途中に御陵願平という平地があり、往古はそこに古代科野国の祖、科野國造の妻といわれる会津比売命を祀った会津比売神社があったともいわれています。しかし、上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれ、後に麓にひっそりと再建されたということです。謙信が休んだのは、ここではないかという説もあります。
大河ドラマで再び脚光をあびそうな妻女山ですが、多くの観光客や歴史マニアが、展望台のある赤坂山を本陣のあった妻女山と勘違いして帰っていくのはなんとも忍びない想いがします。第四次川中島合戦については、第一級史料が無く「甲陽軍艦」「北越軍記」などの軍記物や「上杉家御年譜」などを参考にするしかないため詳細な真相は不明ですが、それでも最近の研究では、全てが絵空事ではなく、事実と脚色とを注意深くより分けて史実を解明しようという流れになってきているそうです。国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻では、江戸時代には使われなくなった甲州の方言が記されており、『甲陽軍鑑』は偽書ではないという分析をされています。信玄と謙信の一騎打ちや啄木鳥戦法などは、江戸時代の創作がかなり入っています。
地元に古くから伝わる伝承も、研究対象に充分なることと思われます。さらなる研究が進むことを期待します。
◉詳しくは、私の研究ページ『妻女山の位置と名称について』をご覧ください。
◉「妻女山」「斎場山」への行き方
◉川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。(妻女山里山通信)
■第四次川中島合戦
1561(永緑4年)
8月8日・・・上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発つ。
8月16日・・上杉謙信が信濃海津城西の妻女山(斎場山)を占領し陣馬平、堂平、千人が窪に兵を置き布陣する。
8月18日・・謙信出陣の報を受けた武田信玄が一万八千の軍を率いて信濃川中島に出陣する。
8月24日・・武田信玄が信濃川中島に到着、雨宮の渡し西岸付近に布陣し、謙信の退路を断つ。
8月29日・・武田信玄が八幡原経由で広瀬の渡しから信濃海津城に入城する。
9月09日・・武田信玄が軍議を開き、席上山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策。
9月10日・・【第四次川中島合戦】
上杉謙信が亥刻(22時頃)妻女山を下り濃霧の中、千曲川の雨宮・十二ケ瀬・狗ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。
武田軍別働隊一万二千が子の半刻(01時頃)既にもぬけの殻となった妻女山へ進撃。
信玄は八千の兵と共に八幡原に布陣。上杉謙信が急襲し合戦となる。
武田信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が川中島合戦で戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。
詳しくは、モリモリキッズにフォトドキュメントをアップしました。ご覧ください。