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古代科野国のロマン。妻女山にも大室のような積石塚古墳群があった!?(妻女山里山通信)

2012-05-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
 実は私は以前から、妻女山山系にも大室古墳群のような積石塚古墳群があったのではと考えていました。妻女山から続く天城山(てしろやま)の北西の中腹の台地、堂平にある積石塚古墳群と、その北の台地、陣場平になぜか一基だけ積石塚があります。そして、北面の谷にはごろた石が散乱する場所があるのです。

 妻女山山系は、時代は特定できませんが、かなり古くから山上が畑として開墾されました。そのための畑の土留めとして積石が使われたのではと考えていました。また、それ以前の戦国時代には、清野氏の山城が築かれたり、川中島合戦の際には上杉軍の陣地が築かれたりしました。その際にかなり壊されたのではとも考えていました。

 そんな折り、先日叔父から戦後すぐに妻女山の「上杉謙信槍尻の泉」の上に三基の積石塚があって、学校で見学したことがある、という話を聞きました。「上杉謙信槍尻の泉」の上の谷には、積石塚古墳に使われる様な石がゴロゴロしており、またそれらを使った石垣も残っています。

 昭和23年にGHQが撮影した航空写真を印刷表装したものを持っています。当時その谷は主に桑畑でしたが、三基の積石塚は確認できません。ただあったことは、叔父などの証言から間違いないことです。この冬に確認してみますが、その後、積石塚は崩されてしまい現存していないようです。あったと思われる場所には、20~30センチ大の石が散乱しています。

 その谷の上部は、ノケダンという地名ですが、これは地形から「野毛段」と書くと思われます。野毛とは、古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」といい、「崖」を意味する言葉です。それに段がついたもので、ここの地形は崖地と段があるので、まさに名前の通りです。この段の部分にも積石塚があった可能性があります。尚、この段が積石塚を作るために人工的に整地されたものならば、「野毛壇」と書いてもいいでしょう。

 そして、その上は東風越(現在は長坂峠)という峠ですが、そこから陣場平までは緩斜面の台地で、GHQの航空写真では陣場平含めて広い畑地になっており、地名を天上といいます。そして、その一段上の陣場平の北西の一角にひとつだけ積石塚が残っているのです。これは非常に不思議です。畑の土留めに石垣が使われているので、そのために他の塚が壊されたのかとも思いますが、それ以前に里俗伝で、川中島合戦の際に、上杉謙信がここに七棟の陣小屋を築いたと伝わっているので、その際に角のひとつだけ残して他が全部壊された可能性もあります。

 陣場平は、『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』(東北大狩野文庫)に七棟の陣城(陣小屋)が描かれている場所で、1ヘクタール以上ある山上の広大な平地です。その陣場平から北面に下って「上杉謙信槍尻の泉」の谷まで積石塚古墳群があったのではという推測を図にしたのが、写真最下部の地図です。大室の古墳群と同様に、谷は渡来人の故郷である朝鮮半島の方向を向いています。尚、写真の三基の積石塚があった場所は、もう少し奥かもしれません。

 古墳時代に放牧の技術を伝えたといわれる渡来人のものという積石塚古墳群は、大室古墳群の他に、松代町東条や千曲市の倉科にも残っています。古代科野国のロマン溢れる史跡巡り。歴史マニアや歴女の方におすすめです。尚、史跡巡りは、トレッキングの装備で。地形図が必要です。堂平積石塚古墳群へは、道がありません。季節によっては、熊、猪、オオスズメバチに要注意です。

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