二年前に「妻女山奥で金属探知機を手にした怪しい外国人と遭遇」という記事を書きましたが、今回キノコ狩りから長坂峠に戻ると、またまた金属探知機らしき物をを持った怪しい男性が。もちろん前回の彼とは違います。前回の彼は、その後友人となって我々のBBQパーティーに何度も参加してくれています。時には作業の手伝いも。現在は事情があってフランスに帰っていますが・・。妻女山は、トレジャーハンターのメッカなんでしょうか。もちろん、今回も怪しい人は、本当にいい人でした(笑)。
その前に、キノコ狩りの話を。昨年は11月の中旬にならないとムラサキシメジが出ませんでしたが、例年なら10月下旬か、遅くとも11月に入れば出るキノコです。腐生菌で厚く霧に巻かれるか、雨が降らないと出ないキノコです。その代わり雨が降るとあっという間に菌糸が成長しすぐに大きくなって、一週間もしない内に老菌になってしまいます。真ん中の写真の様に、ムラサキシメジは菌輪になって出ます。これはかなり枯葉を取り除いた状態で、実際は下の写真のようにほとんど見えません。見つけるにはシロを知っていることが第一条件ですが、所謂「キノコ眼」が必要なんです。
普通は左上の写真の様な状態です。なんとなく3つ、4つキノコらしきものが見えると思いますが、実際にこの写真の中には10本以上のムラサキシメジが隠れているのです。以前にも書きましたが、フランスではピエブルー(pieds bleus:青い足)と呼ばれる高級食材です。旨味成分が多く、ホンシメジに匹敵する本当にいい出汁が出ます。生食すると中毒すると書いてありますが、基本的にキノコは生食は厳禁です。人間の消化酵素は、キノコの成分を分解できないものが多いのです。栽培マッシュルームをサラダに入れるのは、例外中の例外です。ただ、そのためにお通じはよくなりますけれどね。紫は歌舞伎などで病の役が紫の鉢巻を巻きますが、ムラサキシメジの藤紫という色は高貴な色でもあり、若紫と呼ばれ、古くは平安時代から現代まで好まれてきました。日本人好みの高貴な色で、私は「秋の森の貴婦人」と呼んでいるのですが、彼女はよくお腹に小さなウジ虫を飼っているのです。塩水に浸けると出てきます。食べても全く問題はありませんが。絶世の美人にはお気をつけめされよ、ということでしょうか。色白は七難隠すともいいますね。だからといって色黒がいいということでもないでしょうに。失礼、話が脱線しました・・。
「恋しけば 形見にせむと 我がやどに 植ゑし藤波 今咲きにけり」山辺赤人『万葉集』
「おもかげは 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど」(光源氏)紫式部『源氏物語』
「山桜の花のようなあなたの面影が私から離れないので、心のすべてをそちらに残してきたのですが・・・」幼い若紫を見染めさらってきてしまう・・。
一番右のキノコは、シロノハイイロシメジといって毒キノコ。ムラサキシメジは、乾燥すると色抜けして白っぽくなるので、同時期に出るこのキノコと間違えないようにしないといけません。よく隣り合わせで生えています。山渓のきのこ図鑑では、アメリカでは食用とされるが、暖かい部屋に持ち込むとスカンクのような変な匂いがすると書いてあります。実際煮たり焼いたりするともの凄く臭いです。これを平気で美味しいと食べる人を二人ほど知っていますが、共通するのは二人共鼻が馬鹿だということです。シメジなので味はいいというので、私も一時期、塩漬けにしたり色々試してみましたが無理でした。
とっておきのシロで、ムラサキシメジを採ってから長坂峠に戻ると彼がいたわけです。日米の混血の彼は、祖父の郷里が松代と言いましたかね。山が好きで金属探知機を持って、あちこちの山を登っているそうです。斎場山(写真左と中)を探して迷っていたようなので、案内することにしました。歴史も好きで、イギリス人の書いた川中島合戦の本を読んだそうです。どんな内容でしょう。出典はなんでしょう。気になります。『甲越信戦録』なら、ほとんど江戸後期の作り話になりますが。そこで、斎場山の上で(写真右)、ここに上杉謙信が最初に本陣を置いたという「伝説」を話しました。そして、ここが古墳で古代科野国の遺跡のひとつであることも。次に、武田信玄が海津城に全軍を入れた後で、上杉謙信が陣小屋を七棟建てたと言われる陣場平の話をし、そこへ案内しました。
左が、上杉謙信が本陣とした陣場平で、斎場山からは長坂峠を通って5,6分で行けます。中は、長坂峠から陣場平への林道。陣場平はこの林道に面していないため、なかなか一般の人の目に触れることがありません。案内標識もないですし。そこへ彼を案内して登って行くと、突然前方から「シュッ!」と激しい威嚇音がしました。見ると木立の向こうにニホンカモシカが。すぐ逃げましたが、待てよと言うと立ち止まってこちらを見ています。話しかけながら近づきます。彼はそっとアクションカムのスイッチを入れました。しばらくして、また「シュッ!」と威嚇音を出して向こう側に駆け下りていきました。ニホンカモシカに出会えて、彼もラッキーでしたね。しかも、金属探知機で何か見つけましたかと聞くと、ポケットから「これなんでしょう?と言って小さな物を出しました。「これが話していた戊辰戦争の弾丸ですよ!」と。うちの山は松代藩の射撃練習場の一部だったらしいこと。更に戊辰戦争で使われた銃は、アメリカの南北戦争で使われた銃の払い下げ品が多く使われたということも。この話には彼も驚いていました。明治維新と私達は歴史で学びましたが、その本質は世界を牛耳るエスタブリッシュメントの策謀以外の何物でもなかったわけです。それが、日本の軍国主義化から太平洋戦争突入、オイルショック、バブル崩壊、福一大事故まで連綿と続いているわけです。もちろん、こんなことは大学でも、マスコミも絶対に教えてくれませんが。興味のある方は、田布施システムで検索を。
その後、仲間とオオムラサキの保護活動をしていることや、色んな説明をして、彼が金属探知機で探すシーンを撮影させてもらって私は山を下りました。午後から雨になるということなので、森の古墳館と長野県立歴史館の紹介をしました。迷わず行けたでしょうか。今度は山でビールをおごりますよという彼の約束もいつか実現するといいなと思います。私の山仲間は、旧知の者を除いては、ネットで知って会いたいとメールが来たり、こんな風に山の中で出会ったとかで増えていくのです。面白そうな人には必ず声をかけます。直感が働くのです。
その前に、朝方は昨年急逝した山仲間のKさんのログハウスにも立ち寄りました。未だ受け入れられない自分がいるのですが、もうすぐ彼の一周忌です。古墳の前に立つ杉にからんだナツヅタが綺麗に紅葉していました。帰りに妻女山松代招魂社に立ち寄ると、霧雨が降りだしたのですが、歴史好きの観光客が何組か訪れていました。中には、私のブログ記事「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」や、妻女山の歴史研究のページ「妻女山の位置と名称について」を読んで来られた方もいるのではないでしょうか。私のサイトをプリントアウトして来た方にも3組ほど出会ったことがあります。人生は、人であれ物事であれ知識であれ、ある意味出会いこそが全てだと思います。偶然の出会いをどう大事にするかどうかで、人生の豊かさや広がりが変わってくると思うのです。ただ拘泥する必要はないと思います。来るものは拒まず、去るものは追わずでいいのではないでしょうか。
更に下って、「上杉謙信槍尻之泉」へ。これも私の以前の記事「上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!」を読んでいただくと分かるのですが、江戸時代に作られた物語のひとつです。麓の会津比売神社には、「謙信鞍掛の松」なるものもあるのですが、戦国時代は山上にあったが(斎場山西の御陵願平ではないかと私は考えています)、謙信が庇護していたため、信玄により焼かれてしまい、戦後山陰にひそりと再建されたと里俗伝にあります。そうなると「謙信鞍掛の松」は山上にないといけないはずなんですが。まあ、泉同様、後世に作られた物語ですね。
林下の紅葉はヌルデの幼木。ワラビも色づいてきました(写真中)。帰りには千曲川の堤防をめぐって妻女山と斎場山を撮影。雨が降り始めました。これでまたムラサキシメジが出るでしょう。今回は、シロを一部剥ぎ取って別の場所へ移植しました。ムラサキシメジとハナイグチは、条件さえ整っていれば、割りと簡単にシロを移植して作ることができます。8日の朝、初氷が張りました。これから一段と寒さが増すでしょう。中旬過ぎには初雪も舞うかもしれません。信州は、長い冬に入ります。昨冬の様な豪雪がないといいのですが・・。
赤坂橋と岩野橋の間の堤防上から見た妻女山と斎場山。文字が小さいので読めないと思いますが、オリジナルの大きなサイズのものはこちらをご覧ください。
妻女山や斎場山、陣場平への生き方は、私のこちらのブログ記事をご覧ください。
◉「川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。」
★茶臼山や妻女山山系の自然については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。蝶の写真はこちらにたくさんあります。
★ネイチャーフォトのスライドショーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌やオオムラサキ、ニホンカモシカのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。
その前に、キノコ狩りの話を。昨年は11月の中旬にならないとムラサキシメジが出ませんでしたが、例年なら10月下旬か、遅くとも11月に入れば出るキノコです。腐生菌で厚く霧に巻かれるか、雨が降らないと出ないキノコです。その代わり雨が降るとあっという間に菌糸が成長しすぐに大きくなって、一週間もしない内に老菌になってしまいます。真ん中の写真の様に、ムラサキシメジは菌輪になって出ます。これはかなり枯葉を取り除いた状態で、実際は下の写真のようにほとんど見えません。見つけるにはシロを知っていることが第一条件ですが、所謂「キノコ眼」が必要なんです。
普通は左上の写真の様な状態です。なんとなく3つ、4つキノコらしきものが見えると思いますが、実際にこの写真の中には10本以上のムラサキシメジが隠れているのです。以前にも書きましたが、フランスではピエブルー(pieds bleus:青い足)と呼ばれる高級食材です。旨味成分が多く、ホンシメジに匹敵する本当にいい出汁が出ます。生食すると中毒すると書いてありますが、基本的にキノコは生食は厳禁です。人間の消化酵素は、キノコの成分を分解できないものが多いのです。栽培マッシュルームをサラダに入れるのは、例外中の例外です。ただ、そのためにお通じはよくなりますけれどね。紫は歌舞伎などで病の役が紫の鉢巻を巻きますが、ムラサキシメジの藤紫という色は高貴な色でもあり、若紫と呼ばれ、古くは平安時代から現代まで好まれてきました。日本人好みの高貴な色で、私は「秋の森の貴婦人」と呼んでいるのですが、彼女はよくお腹に小さなウジ虫を飼っているのです。塩水に浸けると出てきます。食べても全く問題はありませんが。絶世の美人にはお気をつけめされよ、ということでしょうか。色白は七難隠すともいいますね。だからといって色黒がいいということでもないでしょうに。失礼、話が脱線しました・・。
「恋しけば 形見にせむと 我がやどに 植ゑし藤波 今咲きにけり」山辺赤人『万葉集』
「おもかげは 身をも離れず 山桜 心の限り とめて来しかど」(光源氏)紫式部『源氏物語』
「山桜の花のようなあなたの面影が私から離れないので、心のすべてをそちらに残してきたのですが・・・」幼い若紫を見染めさらってきてしまう・・。
一番右のキノコは、シロノハイイロシメジといって毒キノコ。ムラサキシメジは、乾燥すると色抜けして白っぽくなるので、同時期に出るこのキノコと間違えないようにしないといけません。よく隣り合わせで生えています。山渓のきのこ図鑑では、アメリカでは食用とされるが、暖かい部屋に持ち込むとスカンクのような変な匂いがすると書いてあります。実際煮たり焼いたりするともの凄く臭いです。これを平気で美味しいと食べる人を二人ほど知っていますが、共通するのは二人共鼻が馬鹿だということです。シメジなので味はいいというので、私も一時期、塩漬けにしたり色々試してみましたが無理でした。
とっておきのシロで、ムラサキシメジを採ってから長坂峠に戻ると彼がいたわけです。日米の混血の彼は、祖父の郷里が松代と言いましたかね。山が好きで金属探知機を持って、あちこちの山を登っているそうです。斎場山(写真左と中)を探して迷っていたようなので、案内することにしました。歴史も好きで、イギリス人の書いた川中島合戦の本を読んだそうです。どんな内容でしょう。出典はなんでしょう。気になります。『甲越信戦録』なら、ほとんど江戸後期の作り話になりますが。そこで、斎場山の上で(写真右)、ここに上杉謙信が最初に本陣を置いたという「伝説」を話しました。そして、ここが古墳で古代科野国の遺跡のひとつであることも。次に、武田信玄が海津城に全軍を入れた後で、上杉謙信が陣小屋を七棟建てたと言われる陣場平の話をし、そこへ案内しました。
左が、上杉謙信が本陣とした陣場平で、斎場山からは長坂峠を通って5,6分で行けます。中は、長坂峠から陣場平への林道。陣場平はこの林道に面していないため、なかなか一般の人の目に触れることがありません。案内標識もないですし。そこへ彼を案内して登って行くと、突然前方から「シュッ!」と激しい威嚇音がしました。見ると木立の向こうにニホンカモシカが。すぐ逃げましたが、待てよと言うと立ち止まってこちらを見ています。話しかけながら近づきます。彼はそっとアクションカムのスイッチを入れました。しばらくして、また「シュッ!」と威嚇音を出して向こう側に駆け下りていきました。ニホンカモシカに出会えて、彼もラッキーでしたね。しかも、金属探知機で何か見つけましたかと聞くと、ポケットから「これなんでしょう?と言って小さな物を出しました。「これが話していた戊辰戦争の弾丸ですよ!」と。うちの山は松代藩の射撃練習場の一部だったらしいこと。更に戊辰戦争で使われた銃は、アメリカの南北戦争で使われた銃の払い下げ品が多く使われたということも。この話には彼も驚いていました。明治維新と私達は歴史で学びましたが、その本質は世界を牛耳るエスタブリッシュメントの策謀以外の何物でもなかったわけです。それが、日本の軍国主義化から太平洋戦争突入、オイルショック、バブル崩壊、福一大事故まで連綿と続いているわけです。もちろん、こんなことは大学でも、マスコミも絶対に教えてくれませんが。興味のある方は、田布施システムで検索を。
その後、仲間とオオムラサキの保護活動をしていることや、色んな説明をして、彼が金属探知機で探すシーンを撮影させてもらって私は山を下りました。午後から雨になるということなので、森の古墳館と長野県立歴史館の紹介をしました。迷わず行けたでしょうか。今度は山でビールをおごりますよという彼の約束もいつか実現するといいなと思います。私の山仲間は、旧知の者を除いては、ネットで知って会いたいとメールが来たり、こんな風に山の中で出会ったとかで増えていくのです。面白そうな人には必ず声をかけます。直感が働くのです。
その前に、朝方は昨年急逝した山仲間のKさんのログハウスにも立ち寄りました。未だ受け入れられない自分がいるのですが、もうすぐ彼の一周忌です。古墳の前に立つ杉にからんだナツヅタが綺麗に紅葉していました。帰りに妻女山松代招魂社に立ち寄ると、霧雨が降りだしたのですが、歴史好きの観光客が何組か訪れていました。中には、私のブログ記事「妻女山」「妻女山 行き方」「妻女山 地図」「斎場山」「さいじょざん」「さいじょうざん」や、妻女山の歴史研究のページ「妻女山の位置と名称について」を読んで来られた方もいるのではないでしょうか。私のサイトをプリントアウトして来た方にも3組ほど出会ったことがあります。人生は、人であれ物事であれ知識であれ、ある意味出会いこそが全てだと思います。偶然の出会いをどう大事にするかどうかで、人生の豊かさや広がりが変わってくると思うのです。ただ拘泥する必要はないと思います。来るものは拒まず、去るものは追わずでいいのではないでしょうか。
更に下って、「上杉謙信槍尻之泉」へ。これも私の以前の記事「上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!」を読んでいただくと分かるのですが、江戸時代に作られた物語のひとつです。麓の会津比売神社には、「謙信鞍掛の松」なるものもあるのですが、戦国時代は山上にあったが(斎場山西の御陵願平ではないかと私は考えています)、謙信が庇護していたため、信玄により焼かれてしまい、戦後山陰にひそりと再建されたと里俗伝にあります。そうなると「謙信鞍掛の松」は山上にないといけないはずなんですが。まあ、泉同様、後世に作られた物語ですね。
林下の紅葉はヌルデの幼木。ワラビも色づいてきました(写真中)。帰りには千曲川の堤防をめぐって妻女山と斎場山を撮影。雨が降り始めました。これでまたムラサキシメジが出るでしょう。今回は、シロを一部剥ぎ取って別の場所へ移植しました。ムラサキシメジとハナイグチは、条件さえ整っていれば、割りと簡単にシロを移植して作ることができます。8日の朝、初氷が張りました。これから一段と寒さが増すでしょう。中旬過ぎには初雪も舞うかもしれません。信州は、長い冬に入ります。昨冬の様な豪雪がないといいのですが・・。
赤坂橋と岩野橋の間の堤防上から見た妻女山と斎場山。文字が小さいので読めないと思いますが、オリジナルの大きなサイズのものはこちらをご覧ください。
妻女山や斎場山、陣場平への生き方は、私のこちらのブログ記事をご覧ください。
◉「川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。」
★茶臼山や妻女山山系の自然については、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。蝶の写真はこちらにたくさんあります。
★ネイチャーフォトのスライドショーは、【Youtube-saijouzan】をご覧ください。粘菌やオオムラサキ、ニホンカモシカのスライドショー、トレッキングのスライドショーがご覧頂けます。