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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その1(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学

 陣場平の貝母は散り実がなっています。5月下旬には直径2センチぐらいになり、6月に入ると枯れた実から種を飛ばし始めます。保全作業も一段落したので、久しぶりに鞍骨山(鞍骨城跡)へ登りました。5組ぐらいのハイカーと出会いました。何組かは拙書の読者でした。コースの整備も兼ねているので、剪定ばさみとのこぎりを携帯します。その1と2に分けて掲載します。

 林道から左へ天城山(てしろやま)への登山道を登ります。新緑の緑にヤマツツジの赤が映えます。その昔、松枯れ病の薬剤を入れた青いプラスチックのタンクがあちこちの枝に差してあるので帰りに全部回収します。プラゴミですし、猛毒の薬剤が残っている可能性もあります。最終的に20個ほど回収しましたが、前回は25個ほど。それ以前にも何度も回収しているのですが、どんどん出てくるのです。もう公害レベルです。当時の長野県の対応がいかに杜撰だったかが分かります。ベトナム戦争の枯葉剤を製品化したモンサントのラウンドアップや草退治などは絶対に使ってはいけません。欧米では製造使用禁止が広がっています。「ネオニコチノイド系農薬一覧」や「グリホサート剤」で検索を。このブログでも特集記事を何本も載せています。ネオニコチノイドでブログ内検索してください。あなたとあなたの愛する人達を守るために。
ネオニコチノイド系農薬一覧:主成分は、ベトナム戦争でベトちゃんドクちゃんを生み出した枯葉剤です。こんなものを除草や殺虫剤として使ったらどうなるか猿でも分かる。それが今の日本の現状です。

 直登すると5分ほどで天城山山頂(694.6m)。坂山古墳があります。鞍骨山へは左の巻道をたどります。登山道のヤマガシュウを何十本と切っています。根本を切るので、そのたびにしゃがんだり立ったりで疲れます。

 陣場平から1時間で二本松峠。登るだけならこんなにかかりません。右へ倉科へ下る清野坂。ひだりへ清野へ下る倉科坂。倉科の人が清野へ行くために登った坂なので、倉科側が清野坂なのです。鏡台山までは鞍骨山、御姫山、大嵐山(杉山)を経て6キロです。

 二本松峠から鞍骨山までは850m。

 道は尾根の南側をたどります。この時期は、鏡台山から親子連れの月の輪熊が山際にある淡竹の筍を食べに来ます。ホイッスルと熊鈴を必ず携行してください。見通しの悪いところではホイッスルを鳴らして。

 やがて駒止といわれる深い堀切が現れます。

 更に進むと、妻女山展望台からも見える高圧線の鉄塔をくぐります。2009年にこのコースを整備した時は、エビガライチゴとヤマガシュウで塞がれていました。毎年3月上旬に伐採を続けました。千曲市の緑を守る会や標識を立てている倉科のMさんなどが整備をしてくれて、やっとまともな登山コースになりました。

 鉄塔のすぐ向こうに二条の堀切。今回もバラをたくさん切りました。普通のハイカーは剪定バサミは持っていないので、バラで塞がれたら引き返すしかないですから、整備は必要です。

 堀切を超えると城内で、両側に特に南側に顕著な削平地があります。尾根の上には猛毒のヤマトリカブトの群生地があります。山菜の似ているニリンソウの群生地と混じっているので、要注意です。間違えたら命も危ないです。

 100mほど進んでいよいよ鞍骨城本郭へ登ります。2016年にトラロープとかまぼこ板の矢印をつけました。左から回り込んで上へ。

 かなり崩れた石の道を登ります。写真の上部で分かる様に、ここにはもっとちゃんとした石積みがあったのかも知れません。長野市や千曲市は、この山城の保存をどう考えているのでしょう。坂城町の葛尾城跡は、木道や木の階段を設置して保護しています。

 登ると大ケヤキのあるかなり広い郭(くるわ)。ここで向こう側(南面)へ回り込みます。

 見上げるとずっと上に本郭の石積みが小さく見えます。

 南面の細い道を登っていきます。滑落に注意が必要です。山城の雰囲気がたっぷり伝わってきます。

 凹みのある南面の郭。向こう側に回り込んでつづら折りで虎口へ。かなり狭い道なので慎重に。

 本郭下の狭い郭。

 本郭直下の石積み。善光寺地震や松代群発地震を乗り越えてきた石積みです。

 南面の虎口から見る本郭。
清野氏と戦国時代:清野氏が信濃国の記録に残されているのは、室町時代に入ってからで、十五世紀の半ば永享の乱の前後から十六世紀の終り、上杉景勝が豊臣秀吉の命により、越後から会津に移るまでの百五十年余りの間と思われる。清野氏の歴史。
小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

 ◆鞍骨山その2へ続きます。↓

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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清野氏の鞍骨城跡のある鞍骨山へ。登山道整備をしながら登るGWの最終日◆その2(妻女山里山通信)

2022-05-09 | 歴史・地理・雑学
 鞍骨山その1からの続きです。

 本郭からの松代城の眺め。中央の梢の間から松代城が見えます。展望を得るには、落葉期の12月から4月上旬がおすすめです。上信越自動車道の上に金井山城跡。その奥にエム・ウェーブが見えます。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。

 本郭から土塁を越えて下ると小さな郭があります。本郭では、鋭い棘のあるノイバラやヤマガシュウをたくさん切りました。

 そこから20mほど痩せ尾根を進むと二箇所展望岩があります。まず西側の展望岩。岩場にはネズミサシの木があるので葉に触れると痛いです。

 西展望岩からの眺め。標高800m近いので、新潟焼山の山頂が見えます。

 少し先に東側の展望岩。北風が強いので木の葉が激しくなびいています。

 東展望岩から戸隠西岳を望む。

 その右に戸隠富士と呼ばれる高妻山(2353m)。

 左には白馬三山が。白馬岳(2932m)の大きな山容が印象的。

 正面には御開帳で賑わう善光寺。右手前には武田信玄が本陣としたと伝わる八幡原(はちまんぱら)。

 陣場平ではすでに散ってしまったズミが満開でした。

 林床に妖しく咲くマムシグサ(蝮草)。サトイモ科テンナンショウ属の多年草。薬草で毒草です。

 鞍骨山から妻女山へ戻る際に気をつけなければいけない天城山(てしろやま)手前の分岐。左へ巻道を行くと倉科将軍塚、鷲尾城跡を経て倉科に下りてしまいます。正面は、天城山を越えて芝山、明聖霊神、唐崎城跡を経て雨宮に下ります。妻女山に戻るには右の巻道を進みます。

 清野古墳のある尾根の西面の樹間から爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳が見えました。

 2時少し前に陣場平に戻りました。山仕事はしていましたが、山登りは使う筋肉が異なるので、久しぶりで脚の筋肉がパンパンになりました。というかバラを切るたびにしゃがんだり立ったりを百回以上したのが原因でしょう。いい運動になりました。北風に吹かれて体が冷えたので温泉へ向かいます。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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