週末は、銀座で行われる大学の同窓会のために上京しました。雨の二日でしたが、逆に放射能汚染された粉塵が舞い上がらなかったのは幸いだったかもしれません。本当に充実した二日間でした。こんな素晴らしいセンチメンタル・ジャーニーもないかもしれません。
(左)アルピコの高速バスです。碓氷サービスエリアで15分休憩。三列独立フルリクライニングシートで快適です。私は最後尾の左の窓側。(中)そこの釜飯で有名な「おぎのや」の一角にある列車の席。湯田中-上野って書いてありますね。昔、信越線と長野電鉄河東線を使って志賀高原までスキー列車が走っていました。子供の頃に目にして、わざわざ東京からスキーに来ると聞いて不思議に思いました。普通に妻女山で今で言うクロスカントリーや自分たちで小さなジャンプ台を作ったり、木落しの沢でそりで下るのが子供の肝試しぐらいの恐怖だったり。満月の夜に7時過ぎまで滑っていて、父に捜索願いを出そうかと思ったぞなどと叱られたり。でも父は知っていたのですよ。自転車で遠くへ行きすぎて帰れなくなって友人の母の実家に泊まったり、親戚に泊まった時も、一応怒られましたが、いつもの様に殴られはしませんでした。やんちゃな男の子らしいことは認めていたんです。でも、私が仕事を止めて南米に旅立つという時には、母に「あいつは何を考えているか分からん」と言ったそうです。でも最後は分かってくれた様ですが。男は子供を産めないですしね、レーゾン・デートルを考えると攻めるしかないのですよ。(右)関所の跡を復活。おぎのやの釜飯ですが好きなんですけど、よく考えると近くのおぎのやでいつでも買えるんですよね…。
(左)バスタ新宿は初めてだったのでここはどこだ?でしたが、甲州街道へ出ると10年のブランクが一気に消えました。そりゃあそうです、38年も学び働き尽くし遊び尽くした街ですから。GAPの前の広場に大群衆が。どうやら立憲民主党の枝野代表が応援演説に来るようです。今の自民党は昔のそれではありません。世界中から危険視される極右です。希望の党もそう。外国のニュースをグーグルで翻訳すれば分かります。これだけの大群衆が集まっているのも、自民や公明の様に組織的な動員でないことは、見ていればはっきりと分かりました。いつまで日本は米の植民地、奴隷で居続けるのか。一部の金持ちや大企業だけが優遇される政治でいいのか。若者を再び戦地に送っていいのか。それがこの選挙の本当の争点です。聞きたかったのですが、彼らの主張は分かっているので、先を急ぐので。ここから北へ行くのが難関。
(中)てなわけで私は思い出横丁へ。中通りの四つ角にある「カブト」。十数年ぶりです。30年前から数え切れないほど通いました。満席がほとんどなんですが、左にひとつ空いています。まるで私を待っていてくれたかの様に。(右)うなぎ専門店のこの店には流儀があります。まず「ひと通り」を頼みます。それと飲み物。「ひと通り」は、えり2本・ひれ2本・きも・一口蒲焼き・レバ焼きで1610円。私は恵比寿の黒ビールを。先代の写真も飾ってあります。脚が悪くなって引退したそうです。
(左)現在は娘さんとその息子さんがやっているようです。引き継がれてきたタレと炭火焼きは昔のままです。(中)えり2本かな。(右)ひれ2本ときもかな。間違ってたらごめんなさいね。空きっ腹に黒ビールが効いてきました。客層は昔から中高年がメインですが、この日も若者や女性も来ていました。
こんな感じで炭火焼きは昔と全く変わりません。肝焼きは仕上げに細い腸をクルクルっと巻いて焼き上げます。私の大好物です。住んでいた仙川にもうなぎの肝焼きの美味しい店があって、よく帰宅時に買ったものです。焼いている彼は、手が熱くなると後ろのビールを冷やしてある氷水に入れてましたが、先代も同じことをしてた様な記憶が蘇りました。写真は彼に許可をもらって撮っています。
(左)隣の席、角に常連のおじさんがいて歓談。そこは後ろに柱があるので寄りかかれるんですよ。色々な話をしましたが、彼があの電球撮らなきゃと。そうなんですよ。もうねうなぎの脂の塊です。(中)一口蒲焼き。(右)レバ焼きでいいのかな。レバ焼きは切れることもままあるので、白子だったりするのですかね。まあどうでもいいです、旨いから。私は肝焼きを一本追加しました。焼くのに時間がかかるので、追加注文は早めがいいです。隣の常連さんは「ひと通り」を二回注文していました。いやあ懐かしくて美味しくて涙が出そうでした。ごちそうさまでした。
(左)その向かいにある蕎麦屋さん。蕎麦は自家製、天ぷらも揚げたて。ここは飲んだ後の締めによく使いました。(中)ネットで調べてくるのでしょうね、外国人観光客が大勢訪れていました。もちろん他の店にも行ったことがあります。(右)ソイ丼で有名な「つるかめ」はよく行きました。ソイ丼はまあいいです。といいながら何度も食べてますが。鯨の竜田揚げ定食の店があったり、同僚と呑みに来たりと、歌舞伎町やゴールデン街、二丁目の「その二」、渋谷の小便横丁の業界人が集まった「野川」などと共に、本当にお世話になりました。「野川」の半月はわが家の定番料理になりました。ナンシー関さん御一行と出会って歓談したのもいい思い出です。渋谷は老舗のカクテルバー「門」。若者が行くような店ではないかもしれませんが、最上級のカクテルが頂けます。昔、メニューにはないけどあるカクテルが呑みたいなと呟いたら、年配のバーテンさんがさっと作ってくれて感激したことがありました。渋谷では、「珉珉羊肉館(ミンミンヤンローカン):閉店」「ムルギー」、「ホワイト」、ディスコだと青山の「ウィスキーアゴーゴー」、六本木の「ネペンタ」、「フーフー」、分かりますかね。今回調べて新宿西口の「ぼるが」や「バカボンド」がまだやっていることを知り、胸熱になりました。住んでいた南麻布やしょっちゅう呑みに行った六本木や青山、赤坂、渋谷にも行けませんでしたが、まあいずれ行く機会もあるやも知れません。
そうそう酔っ払っているわけにもいかないので、中央線と総武線を使って秋葉原へ。時間があればメイドカフェなんぞにも行きたかったのですが、横目にハロプロのショップへ。しかし、お目当てのグッズが売り切れで再入荷の予定も分かりませんと可愛いお姉さんに言われて撃沈。まあいいんですよ、人生ってそんなもんです。あっ、でも私はアイドルのキモオタでもロリコンでもありませんよ。私のブログ記事の『[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達』や、『春だからハロプロとかさくら学院とかベビメタとかアイドルネタをやってみようか(妻女山里山通信)』を読んだ方は分かると思います。リンク切れの動画は検索してください。若い頃はアイドル雑誌のデザインをしたり、アイドルやアイドル志望の娘や若いモデルの撮影のディレクションもしていました。表参道でロケもしましたし青山のスタジオで朝から夜まで撮影をしたことも。懐かしい思い出です。女性起業家と知り合って、女子高生や女子大生を集めてシンクタンクをやったこともありました。芸能界や政財界に関しては知っていることを全部喋ったらその筋から消されるぐらい知っていますが、話してもどうにもなることでもないので、元妻にも息子たちにも友人にもあまり話したことはないですね。でも、我慢ならぬ不正についてはツイッターで呟いたりリツしています。怒りを忘れたら生きている意味がありません。ただ、当時はもう仕事大好き人間だったので、毎日が本当に充実していました。
(左)で、御徒町まで歩いてロンドン・スポーツへ。翌日が雨で低温と分かっていたので、パーカーを探しにきました。イタリアのミッテンテのお洒落な撥水防風パーカー18000円が、なんと3000円。即買いました。色はイタリア代表の鮮やかなアズーリ。ここは在京時代も息子たち共々本当にお世話になりました。今回は買えないけどマグロの目玉や鯨を買った吉池にも行きました。懐かしい中田商店やガード下の商店街へも。(中)山手線で有楽町へ。働く女性たちが反核、反原発、反米、反自民のデモをしていました。日本がなぜこんなに貧困になってしまったか。金持ち大企業のみ優遇と米の奴隷で世界中に金を安倍が勝手にばらまいているからです。その額はなんと70兆円。これだけあったら、保育園から大学まで全部無料にしても、とんでもないおつりが来ます。介護保険も要らないし破綻した年金も救えます。彼は血税を自分のポケットマネーと思っているのでしょう。その売国奴の原点は小泉竹中。JAL123便の陰謀、プラザ合意、仕組まれた円高、仕組まれたバブルとその崩壊、30年に及ぶ不況。いい加減に騙され続けていることに気付くべきです。
なくなってしまいましたが、近くにあったプランタン銀座で元奥さんがエコール・プランタンでカフェメニュー教室を開いていました。仕掛けたのは私です。そのメニューや画像はこちらの「マリングルメ」で見られます。かなりディープでお洒落です。(右)銀座通りへ。Appleのショールーム。外国人だらけです。仕事柄、Macしか使って来ませんでしたが、立ち寄る理由はないのでスルー。iPhoneだけでなくパソコンにももっと力を入れて欲しいです。
週末なので銀座通りは午後6時まで歩行者天国です。ルイヴィトンのビルから四丁目の交差点方向を見た風景です。仕事でもプライベートでも数え切れないくらい歩いたところ。この裏手の通りの方が、飲んだり食べたりと訪れています。今は長野県のアンテナショップ「銀座NAGANO」もあります。昔は外国の有名ブランドの店はほとんどなく、外国人も少なく、雰囲気が異なりました。なくなった老舗もあります。
(左)ブルガリ。(中)シャネル。(右)ルイヴィトン。今はこんな風に外国のブランドショップが並んでいます。私が盛んに働いていた頃にはなかった店ばかりです。息子たちと煉瓦亭に行ったり、仲間とみゆき通り裏の店で飲んだり、接待でクラブに行ったり、ガード下のメチャクチャ臭いタイ料理屋「あろいなたべた aroyna tabeta(移転)」に行ったりと銀座の裏表を楽しみました。若い頃は電通で仕事をしていたし、南米から帰国後は朝日新聞の本社にも通いました。そんな訳で東銀座や築地もよく知っています。旺文社や凸版印刷にもよく行ったので、神楽坂や秋葉原、御徒町もよく行きました。息子たちの七五三やイベントは、当時の家庭の事情でいつもホテル・オークラやその系列のレストランでした。そのオークラも建て替えですね。次々と想い出の場所が消えていきます。
(左)マネキンの顔も昔とはかなり変化しましたね。(中)文具の伊東屋。ここで買った万年筆は今も持っていますが、使う機会がなくなったのは寂しいことです。手紙を書く相手がいない。メールで済んでしまいますからね。スカイプでテレビ電話もできますし。返事がいつ来るかななんてドキドキしながら待つ日々も、もう過去のものです。(右)ティファニー。オードリー・ヘップバーンの『ティファニーで朝食を』に関しては、私の村上春樹さんがやっていた70年代の国分寺ピーター・キャットのエピソードを綴った『国分寺・国立70Sグラフィティ』 の『秋に似合うジャズ。ピーター・キャットでかかっていたあの名曲【枯葉】』 の記事をお読みください。なんで宝石店で朝食?という謎が分かるかもしれません。
(左)ホテルにチェックインして入浴し着替えて(デジタルプリントのシックなハイネックシャツにバッファローの黒のスタンドカラーのライダースジャケット、スキニージーンズにナイキのクリムゾンレーキのエアフォースのど派手なスニーカー)、会場の銀座のイタリアンレストラン『バラババオ』へ。既に同窓生が大勢集まっていました。この同窓会は、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科のものなんです。今は全国各地に美大や美術学部がありますが、当時は上京するしかなかったのです。そのため倍率は十数倍でした。ですから私を含め浪人が多かったし、そこを勝ち抜いてきた、言わばエリートなんです。ですから皆それなりのものを持っている人達です。今回再会して改めてそう思いました。(中)何十年ぶりに会う懐かしい顔。よく会っている人はともかく、疎遠な人は顔はなんとなく覚えているんですがお互い名前が出てこない。でも少しずつ記憶が蘇ってきます。(右)ひとりずつ卒業後の人生や近況を報告。本当に色々な人生があります。しかし、色々な事情で来られなかった人や亡くなった人もいます。これは高校の同窓会でも思いましたが、人は平等には年をとらないのです(中国の諺)。努力したから報われるものでもないですが、努力しないで報われるほど世間は甘くない。幸運もあるし、不運もあるけれど、それを乗り越えた人は美しい。そう感じました。数十年ぶりの再会は、本当に感動的でした。嬉しかったのは会った瞬間に女性たちから、「アッ!林く〜ん」て言われたことですね。普段は林さんか林〜いですからね。こんな風に言ってくれるのは同窓生の女子ならではですよ。本当に嬉しかった。愛してるよみんな。
実は私がいた専攻はテキスタイルで、同学年は3人だけ。専攻全体では短大や専攻科含めて120人ぐらいましたが、男性は教授、助手含めても10人しかいませんでした。毎日が花園でした。皆で行った研修旅行とか、今思えばもう天国ですよ。その後の編集プロダクションでも仕事で関わる人は、圧倒的に女性が多かったので、そのいいシミュレーションになりましたね。今ももっと女性に活躍して欲しいと思っています。
(左)拙書を紹介してURLカードを配ったのですが、大学時代の私を知っている皆が、私がこういう方向に行くと思った人はいなかった様です。まあそれは私自身が一番意外だと思っていますが。ただメチャクチャ凝り性でただ者ではないと感じていた仲間はいた様です。デザインはプロですし写真も分かるけど、文才があったとは驚いたとも。ワーカホリックで2度ほど死にかかったことのある私ですが、生きていてよかったなと沁沁と思った夜でした。(中)美大生なのでね皆それなりにダンディーでスタイリッシュなのですよ。なんていうか、深みを感じます。そして今なお何かを探し続けている好奇心と貪欲さを感じました。(右)もちろん人生はいいことばかりではありません。私も若い頃に仕事では自分の限界を感じ、村上春樹さん夫妻のアドバイスを思い出して南米へ200日の放浪に出ました。マフィアに襲われそうになったり、詐欺に遭ったり、旅客機が落ちそうになったり、数え切れないほどのもの凄いトラブルにも巻き込まれました。結婚生活と子育ては大変でしたが充実していました。大手広告代理店をライバルに某金融機関の依頼で十数億円のプレゼンに参加し、幾多の大手広告代理店を相手に勝ったこともありました。グルメの仕事で増えた体重を落とすためブックス・ダイエットで20キロの減量も経験しました。その後、色々あって協議離婚も経験しました。しかし、これからです。リタイアしたこれからが本当にやりたいことを突き詰められる時間なんです。ボケてなんかいられません。攻めますよ。
(左)課題提出の際には本当にお世話になりました。いやまさかここでお会い出来るとは。(中)食べて飲んで話すのに夢中で、料理の写真がほとんどありませんが、さすがイタリア大使館も認めるレストランです。美味しかったですよ。生ハムはもちろんパルマハム。ラザニアや挽肉のコロッケなど。テラミスなどのデザートも秀逸。私はビールの後、赤ワインを呑み続けましたが、詳しくは見ませんでしたがトスカーナの赤ワインですかね。たぶんボトル1本以上飲んでると思います。私は日本ではあまり紹介されていないカラブリア地方のオリジナルレシピもアップしています。(右)最後に記念撮影です。
(左)次回はもっと集まるといいですね。(中)学生時代のころに戻ってしまいますよ。戻れないですけどね。(右)お開きです。その後、10人ぐらいで近くの店で二次会。私もホテルに戻るだけなので参加。黒ビールをいただきました。そこでも、秘話が暴露されたりと楽しい時間が過ぎました。
(左)皆と分かれて私は京橋のホテルへと。ポーラ化粧品のビルの照明が綺麗でした。私は某化粧品メーカーのPR誌のアートディレクションを10年やりましたし、女優やタレント、モデルの撮影のディレクションのためにヘアメークの指示もしていたので、化粧品にもちょっと詳しいのです。(中)ウェディングドレス。こんなドレスを着た新婦の隣にタキシードを着て立っていた時も確かにありましたとさ。(右)黄花の向こうにアウトドアのモンベルのショップ。私も全部ではありませんがお世話になっています。高速下の韃靼そばの「恵み屋」まだあるかなと覗いたらありました。ホテルに帰還してお風呂に入って就寝。
(左)翌日は風呂に入ってからチェックアウト。雨の朝の銀座を有楽町まで歩いて、10時に東京在住の次男とヨドバシカメラ本店の前で待ち合わせ。久しぶりのデートです。昔は彼と横浜中華街デートとかしました。横浜中華街の情報は、私のオリジナルレシピの中華料理の一番下にリンク集があります。(中)カメラ館とか色々見て歩いてコーヒーを飲みたいと。スタバとかチェーン店はいやだと言ったら彼が案内したのが本店裏のここ。行ったことはないそうだ。「コロラド バウンド」。(右)いやあ凄く怪しくて心惹かれる。店名がまずおかしい。看板がおかしい。自家焙煎が怪しいがこれが肝。
(左)地下に下りる階段がヤバイ。なんだこの変なイルミネーションは。貼ってあるポスターとか置物にも一貫性が全く無い。気に入った。(中)で、店内はこんな。年季の入ったおばちゃんがタバコ吸いますか?ってお客は誰もいないのに。吸いませんと言ったら、じゃあどこでもいいですと言われて案内された席がここ。次男はアイスコーヒーを、私はそれしか飲まないモカを。次男がなんでニヤニヤしているかというと…。この店は基本アメリカン・グラフィティの世界なんですけど。壁に変な油絵があったりなんかグチャグチャなんですよ。でなんで店名が「コロラド バウンド」なんだと二人で考えたんですけど分からない。笑うしかないです。デコラのテーブルは割れて盛り上がっているし、メニューはどう見ても十年以上前のものだし。
で帰って調べました。「Townes Van Zandt - Colorado Bound」。直訳すると「コロラド縛り」となります。コロラドに閉じ込められてとかいう意味ですかね。ロッキー山脈の麓で海がないし標高が高く、なんだかアメリカの信州って感じですね。州都はデンバー。カントリーウェスタンのメッカですね。私も子供の頃あの山(北アルプス)の向こうに行きたいと思い続け上京しましたから。前記の歌詞を見ると、やはりコロラドに魅了されてどこへも行きたくないという歌ですね。信州にも魅了されてもうどこへも行かないという人がたくさんいます。帰郷してスーパーの入り口の大きなガラス窓から鹿島槍ヶ岳がどかんと見えた時に私もそう思いました。
(右)私のモカが出てきたんですけどね。味は確かにモカ。でもねと思っていると、おばちゃんが「なんか薄くない?アメリカンみたいじゃない?作り直すわ」と。500円ですからね。作り直してくれたモカは美味しゅうございました。しかし、このカップ何気にロイヤル・コペンハーゲンだったりして。私も職業柄というかコペンとかウェッジウッドとか有田焼とか備前焼とかお店をやれるほど高級食器をたくさん持っているのですが、倉庫の中。毎日100均のマグカップでコーヒーを飲んでいます。
で、話はこれで終わらないのです。は?客が来た。若い女性が来ました。タバコ吸いますかで吸いますで奥の席へ。すぐ若い男性が彼氏かと私も息子も思いましたが、そうではない様でタバコ吸いますか?ですぐ隣のテーブルへ案内。もうね息子と苦笑ですよ。なんで他人なのにがら空きなのに隣にするんだよって。逆に変な風景です(笑)。でもこれが縁で愛が生まれるかも。ええ私たちはタバコの煙が嫌いなのですぐ出ましたけどね。いやあ面白い店でした。聞いたら開店から35年だそうです。これだから東京は面白いんですよ。チェーン店なんか行ってる人はもったいないですよ。あれはただの工業製品です。本当に面白い店があるのが東京。食べログなんかじゃ分からない、いい店が隠れています。冒険しましょう。
(左)ハラ減ったなと行ったのが東口の回転寿司『沼津港』。ここは店の場所は違いますが私が在京中に何度も行ったことがあり、店舗数も少ないし回転寿司の中では旨いので。いくらでも食べていいよと言える数少ない店でもあります。中国人や外国人が多かったですね。二人で18皿食べましたが、一番美味しかったのは生のボタンエビ。1貫520円だったかな。高いけど身の握りに味噌が入った頭が付いてきます。これは絶品でした。個人的に気に入ったのは大鰯のにぎり。鮮度がよくて馬鹿旨でした。他にはあん肝や鱈の白子、サヨリ、甘エビ、真つぶ貝やアオリイカなど。
回転寿司で私が絶対食べないのはマグロとマヨのかかったもの。回転寿司やスーパーの寿司のマグロを食べると、本当にいいマグロの味を忘れてしまうからなんです。「久兵衛」のマグロで一番好きなのは赤身。大トロの味が食べたければ中トロ。大トロはそもそも選択肢にありません。で、二人でお腹いっぱいで7000円弱。いいと思いますよ。産地が表示されているのもいいですね。庶民的なのにレベルが高いのがいいです。
(中)伊勢丹本館。いいですね。息子によると耐震工事も終わったそうで、こういう建物は残して欲しいですね。(右)地下街を通って西口へ。次男にメンズノンノみたいな写真撮ってやるわと言ったけどコンデジではこれが精一杯か。いやこれ背景に照明もってきちゃだめでしょ。でもフラッシュは嫌いなんでね。親の私が言うのもなんだが、背は高いしイケメンだし、性格もいいし、構造計算できる建築士だし、今彼女がいないので推薦してくだされ。さくら学院とBABYMETALが好きなアイドルオタクだが、自転車と山登りが好きなリア充の側面もあります。長男と共にサッカー小僧。小さい頃からペーパークラフトが得意で、日テレのスッキリ!!や朝日新聞、東京新聞などの取材も受け、展覧会も何度もしています。彼らのサイト「T&T SUTUDIO」。最近の作品は、長男がブログにアップしています。二人のブログへは、このブログの左のブックマークから飛べます。
私は外国放浪を何度もしていたのもあって、息子たちとは10歳ぐらいまで出掛ける時は必ずハグしてキスをしていました。もちろん奥さんともね。スキンシップを大事にしていたのです。長男の低学年のときの担任の女性教師が、「帰ってきたら宿題はとかではなくて、抱きしめてください」と言ってくれて、彼女は分かっているなと思いました。子育てでスキンシップは大事なんです。私は息子たちに問題が起きた時にこうしろと指図したことは一度もありません。どうすればいいと思う?どうしたい?といつも考えさせるようにしました。勉強しろと言ったことも一度もありません。むしろ宿題なんかいいから遊びに行こうと言って息子に怒られたことがあるほどです。ホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』を読んだことがあるでしょうか。人は遊んでこそ人なのです。どんなにいい大学出ようが社畜の人生などまっぴらごめんです。アートディレクター時代には東大卒や六大学卒の人達を相手に仕事をしましたが、敵わないと思ったことはありません。確かに頭はよく出来たものに対する評価は実に的確です。しかし、想像力と創造力が全く無い。これが日本の教育の最大の欠点です。
(左)で、西口広場を歩いたらいつもの怪しげな露天街の前でアイヌの人達のイベントが。これはいいねと。(中)一番ちっちゃい娘が可愛い。眼力があって、魅了されました。この娘は将来が楽しみです。アイヌと沖縄人は別民族に思われていた歴史があって差別もされていたが、DNA的には本土の人とそう変わりはない。むしろ今の半島の人達との方が遠いということは証明されている。伝統的な模様は、縄文を想起させます。興味あればアラハバキやミシャグジで検索すると、古代倭人の歴史が分かります。古代科野国の大陸との関係は、郷土史研究家の私の最も興味ある分野で研究を続けています。人類はアフリカに生まれて南米の先端まで行ったほど活動的で精力的なんです。理由は好奇心。放浪癖がありアマゾンまで行った私がまさにその体現です(笑)。今もその想いを胸に里山の藪山を歩いているのです。あなたの人生はあなたのもので一度しかないのです。好きなことをやりましょう。(右)次男が連れて行ってくれたのはオリンパスのショールーム。長男も次男もスバリストでオリンパスユーザーなんですが、実は私がオリジナルなんです。学生時代に初めて買った一眼レフがオリンパスのOM-1。息子たちに買い与えたコンデジもオリンパスでした。そんなでここに立ち寄ったのですが、ここでスタッフの皆さんとそんなことを話して、拙書を紹介してブログを紹介したら早速見てくださって。おまけにRAWデータがいじれないという問題にも色々応えていただき、有意義な時間が過ごせました。お姉さま二人が、次男が持っていたオリンパスのカバンに並々ならぬ関心を持たれていたのですが、無理はありません。70年代のオリンパスOM-1のバッグなんです。このカメラは次男にあげたんですが、その縁でこのバッグを探して買ったんですよ。私が一緒に仕事をした岩合光昭さんの話などやオリンパスの開発の話なども聞けて本当に楽しく有意義な時間を過ごさせて頂きました。今回の写真は全て最近買った新製品のオリンパスタフTG-5で撮影したものです。彩度と色味がやはりコンデジなのでフォトショップで補正していますが、もうコンデジとしては最高峰のレベルです。
信州に戻る時間が近づいてきました。バスタ新宿からガラス越しじゃなくて撮れるとこがあるよと次男に教わった場所から。代々木方向です。左の高島屋の向こうにあった紀伊國屋書店はなくなってしまったとか。ビブリオマニアだった私としては、本当に哀しい限りです。発車を待つ成田エクスプレス。若い頃はカルチャーショックを求めて欧州やアマゾン、アンデスなど海外を放浪しまくりました。成田エクスプレスや空港バスを見ると、その頃の旅立つ高揚感が蘇ってきます。で、東京土産に買ったのがサザンテラスの宮崎県のアンテナショップの炭火焼き鶏と液状柚子胡椒。東京土産に宮崎県産かよと次男に笑われましたが、昔から好きなんです(笑)。チキン南蛮と冷汁は。自分でもっと美味しいのが作れれるのでパス。
今回新宿ゴールデン街や事務所があった一番馴染み深い原宿には行きませんでした。原宿は昔から入れ替わりが激しく面影がないのです。事務所の建物もないし、当時はデザイナーズブランドのものを職業柄着ていたのですが、その店もほとんどありません。あるのはビームスぐらいですかね。スーツはほとんど着る機会がなかったのですが、お気に入りはヨージ・ヤマモトの Ys' for menでした。冠婚葬祭にはイタリアのあるブランドのブラックスーツを。コートはステンカラーのビームスインターナショナルのライトベージュのダスターコート。カーキ色のキルティングのも持っています。ニットはミッソーニとかはビートたけしが着ていましたが、なんだかなあでミカエルロスとかを。当時着ていたフレンチカジュアルのショッキンググリーンのロングパーカーは長男に、ロンドンで買ったロンドンコートは次男に譲りました。それにしてもビームスと同じビルで友人がやっていた宝石店もないし。同潤会アパートもないですしね。仕事柄アンテナショップのアパレル店舗やレストランができると必ず行きました。でもある時期からパターン化してつまらなくなりました。それにしても原宿は変化が激しすぎます。
(左)信州に帰ります。バスは三列ですが右だけ独立シートです。私は最後尾。反対の窓際にひとり可愛い女の子。面白い娘でしたが、おじさんはちょっと心配にもなりました。(中)雨がそぼ降る新宿バスタ。真ん中は成田空港へのバス。大きなバスターミナルですが、サンパウロのは120もプラットホームがあり比較できないほど大きなものでした。ブラジル放浪のフォトエッセイ「ーここから全てが始まった<アマゾンひとり旅>」。(右)いやあ楽しかった。けれど次の上京はあるのだろうかとも思いました。それは私のツイッターをずっと見ている人は分かっているだろうと思います。東京は25年経って健康な子供が5%しかいないウクライナよりも放射能汚染が酷いのです。米エネルギー省国家核安全保障局(NNSA)のデータ。東京初め首都圏にどれほどの放射性物質が降ったかこれを見れば一目瞭然。終わりの始まりはすでに始まっているのです。都が一人あたり3600ベクレル内部被曝している(希ガスを除く)の発表からも分かるはず。それを知らないなら情報弱者。私はチェルノブイリの事故の3年後にノルウェイの友人(母娘)を訪れて、汚染の酷さを知りました。2000キロも離れているのに川魚とキノコは食べては駄目と言われました。詳しくは『ノルウェーの森・センチメンタルジャーニー』をお読みください。福島と東京の距離は? 東京を汚した東電と自民党を私は絶対に許しません。
雨の碓氷サービスエリア。信州では、電車や列車で移動することがほとんどないのです。バスも稀。近くのコンビニやレストランさえ自家用車です。なので全て自分の主体性に任されるのです。今回久しぶりに上京して、その違いに愕然としました。田舎は自由です。だからアバウトなんです。でも東京の人は本当によく歩く。でも平らなところなのでダメージが大きい。インナーマッスル(体幹)を強化にするには階段の一段抜かしとかスクワットをしないとだめです。電車では吊革につかまって少しつま先立ちエスカレーターは絶対に使わない。そうやって鍛えていました。逆に田舎だと相当自覚しないと鍛えられないのです。
普通カメラマンならこういうぶれた写真は使いません。私はアートディレクターをしていたので、時にはブレていても露出がおかしくても琴線に触れれば使うのです。その方が感情や情緒を表現するのに適している場合があるからです。涙で滲んでしまうそんな風景もあります。今回は動画は撮りませんでしたが、もう少し感性を磨いて次回は動画も撮りたいなと思います。とにかく最高なセンチメンタル・ジャーニーでした。
さて、帰郷後は仲間と里山保全や黒大豆で味噌の仕込みもしないといけないし、何より撮影にあちこちの山に登らないと。錦秋はアッという間に過ぎて長い冬になってしまう信州です。
◉それから私がガイドしたBS-TBS「諸説あり!」川中島の戦い(仮)の放送時間です。
11月11日(土)夜10:00〜10:54 興味があったら観てください。私も少し映るかもしれません。
BS-TBSの歴史番組のガイドで鞍骨城跡へ。秋めいてきた妻女山山系(妻女山里山通信)
今回都内を電車で移動している時にふと思い浮かんだ曲があります。名曲だと思います。今は遠いある女性を想い出します。初めて出会った時、彼女は大学出たての編集初心者で赤いダッフルコートを着ていたので、私の事務所では赤ずきんちゃんと呼んでいました。「赤毛のアン」が大好きな知的で可愛い女性でした。付き合ったこともあるのですが、当時の私は忙しすぎて。家の事情でか、突然彼女は帰郷してしまい、今ならメールもスカイプもありますが、当時はなかなか連絡もとれずにやがて疎遠になりました。私が帰郷した後でなんとなく思い出し調べてみると、再び上京して某出版社のファッション雑誌の編集長をしていることが分かりました。分かったのは彼女が独身で名字が変わっていなかったからです。少しショックでした。今はリタイアしたのでしょうか。元気でいるといいのですが…。尊敬できる女性でした。
私は今までの人生で結婚したいと思った女性が三人いました。最初の人は村上春樹さんのことを書いたブログにも記している今は英国在住のピアニストの女性。スクリャービンの演奏で有名。米の大学で教えたりアルバムもいくつか出しています。イースターの休みに二人でパリに旅行しましたが、パリジェンヌが振り返るほどの華がある美人で、才能豊かな女性でした。二人目がこの編集者の女性。三人目が実際結婚して息子二人を育ててくれた女性。年齢は一回り年下でした。12歳違いましたが、私は成人したら年の差は関係ないと思っていました。大人ならいくつでも対等に付き合えるはずです。そうですね、スレンダーで小顔で、頑張りやさんだけど甘え下手でしたかね。水彩画の才能があったのでそこを最大限に伸ばしてあげました。よく頑張ったと思います。料理は何も出来ない人だったのですが、家庭環境で非常に高いベースがあったので、基本を教えると伸びてプロレベルになりプランタン銀座で料理教室をするまでになりました。結婚する前に、彼女に想いを伝える方法として私が選んだのは、馬鹿でかい花束を突然送るというものでした。仕事の打ち合わせの後で原宿駅まで送る途中に「今日誕生日なの」と言われて、待っててといってコープ・オリンピアにあった高級生花店に入って真紅の薔薇の凄く大きな花束を作ってもらい「おめでとう」と渡したのです。彼女とは協議離婚しましたが、結婚生活に後悔はありません。人生は色々です。彼女は今も頑張って仕事をしています。
■駅 竹内まりや
◉『国分寺・国立70Sグラフィティ』 村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック「見てもらうと分かるのですが、ムサビ時代の同窓生の写真を勝手に使っています。今回それをごめんねと事後承諾をもらえた?のも良かったなと思いました」とさ。 #村上春樹 #HARUKI-MURAKAMI
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
(左)アルピコの高速バスです。碓氷サービスエリアで15分休憩。三列独立フルリクライニングシートで快適です。私は最後尾の左の窓側。(中)そこの釜飯で有名な「おぎのや」の一角にある列車の席。湯田中-上野って書いてありますね。昔、信越線と長野電鉄河東線を使って志賀高原までスキー列車が走っていました。子供の頃に目にして、わざわざ東京からスキーに来ると聞いて不思議に思いました。普通に妻女山で今で言うクロスカントリーや自分たちで小さなジャンプ台を作ったり、木落しの沢でそりで下るのが子供の肝試しぐらいの恐怖だったり。満月の夜に7時過ぎまで滑っていて、父に捜索願いを出そうかと思ったぞなどと叱られたり。でも父は知っていたのですよ。自転車で遠くへ行きすぎて帰れなくなって友人の母の実家に泊まったり、親戚に泊まった時も、一応怒られましたが、いつもの様に殴られはしませんでした。やんちゃな男の子らしいことは認めていたんです。でも、私が仕事を止めて南米に旅立つという時には、母に「あいつは何を考えているか分からん」と言ったそうです。でも最後は分かってくれた様ですが。男は子供を産めないですしね、レーゾン・デートルを考えると攻めるしかないのですよ。(右)関所の跡を復活。おぎのやの釜飯ですが好きなんですけど、よく考えると近くのおぎのやでいつでも買えるんですよね…。
(左)バスタ新宿は初めてだったのでここはどこだ?でしたが、甲州街道へ出ると10年のブランクが一気に消えました。そりゃあそうです、38年も学び働き尽くし遊び尽くした街ですから。GAPの前の広場に大群衆が。どうやら立憲民主党の枝野代表が応援演説に来るようです。今の自民党は昔のそれではありません。世界中から危険視される極右です。希望の党もそう。外国のニュースをグーグルで翻訳すれば分かります。これだけの大群衆が集まっているのも、自民や公明の様に組織的な動員でないことは、見ていればはっきりと分かりました。いつまで日本は米の植民地、奴隷で居続けるのか。一部の金持ちや大企業だけが優遇される政治でいいのか。若者を再び戦地に送っていいのか。それがこの選挙の本当の争点です。聞きたかったのですが、彼らの主張は分かっているので、先を急ぐので。ここから北へ行くのが難関。
(中)てなわけで私は思い出横丁へ。中通りの四つ角にある「カブト」。十数年ぶりです。30年前から数え切れないほど通いました。満席がほとんどなんですが、左にひとつ空いています。まるで私を待っていてくれたかの様に。(右)うなぎ専門店のこの店には流儀があります。まず「ひと通り」を頼みます。それと飲み物。「ひと通り」は、えり2本・ひれ2本・きも・一口蒲焼き・レバ焼きで1610円。私は恵比寿の黒ビールを。先代の写真も飾ってあります。脚が悪くなって引退したそうです。
(左)現在は娘さんとその息子さんがやっているようです。引き継がれてきたタレと炭火焼きは昔のままです。(中)えり2本かな。(右)ひれ2本ときもかな。間違ってたらごめんなさいね。空きっ腹に黒ビールが効いてきました。客層は昔から中高年がメインですが、この日も若者や女性も来ていました。
こんな感じで炭火焼きは昔と全く変わりません。肝焼きは仕上げに細い腸をクルクルっと巻いて焼き上げます。私の大好物です。住んでいた仙川にもうなぎの肝焼きの美味しい店があって、よく帰宅時に買ったものです。焼いている彼は、手が熱くなると後ろのビールを冷やしてある氷水に入れてましたが、先代も同じことをしてた様な記憶が蘇りました。写真は彼に許可をもらって撮っています。
(左)隣の席、角に常連のおじさんがいて歓談。そこは後ろに柱があるので寄りかかれるんですよ。色々な話をしましたが、彼があの電球撮らなきゃと。そうなんですよ。もうねうなぎの脂の塊です。(中)一口蒲焼き。(右)レバ焼きでいいのかな。レバ焼きは切れることもままあるので、白子だったりするのですかね。まあどうでもいいです、旨いから。私は肝焼きを一本追加しました。焼くのに時間がかかるので、追加注文は早めがいいです。隣の常連さんは「ひと通り」を二回注文していました。いやあ懐かしくて美味しくて涙が出そうでした。ごちそうさまでした。
(左)その向かいにある蕎麦屋さん。蕎麦は自家製、天ぷらも揚げたて。ここは飲んだ後の締めによく使いました。(中)ネットで調べてくるのでしょうね、外国人観光客が大勢訪れていました。もちろん他の店にも行ったことがあります。(右)ソイ丼で有名な「つるかめ」はよく行きました。ソイ丼はまあいいです。といいながら何度も食べてますが。鯨の竜田揚げ定食の店があったり、同僚と呑みに来たりと、歌舞伎町やゴールデン街、二丁目の「その二」、渋谷の小便横丁の業界人が集まった「野川」などと共に、本当にお世話になりました。「野川」の半月はわが家の定番料理になりました。ナンシー関さん御一行と出会って歓談したのもいい思い出です。渋谷は老舗のカクテルバー「門」。若者が行くような店ではないかもしれませんが、最上級のカクテルが頂けます。昔、メニューにはないけどあるカクテルが呑みたいなと呟いたら、年配のバーテンさんがさっと作ってくれて感激したことがありました。渋谷では、「珉珉羊肉館(ミンミンヤンローカン):閉店」「ムルギー」、「ホワイト」、ディスコだと青山の「ウィスキーアゴーゴー」、六本木の「ネペンタ」、「フーフー」、分かりますかね。今回調べて新宿西口の「ぼるが」や「バカボンド」がまだやっていることを知り、胸熱になりました。住んでいた南麻布やしょっちゅう呑みに行った六本木や青山、赤坂、渋谷にも行けませんでしたが、まあいずれ行く機会もあるやも知れません。
そうそう酔っ払っているわけにもいかないので、中央線と総武線を使って秋葉原へ。時間があればメイドカフェなんぞにも行きたかったのですが、横目にハロプロのショップへ。しかし、お目当てのグッズが売り切れで再入荷の予定も分かりませんと可愛いお姉さんに言われて撃沈。まあいいんですよ、人生ってそんなもんです。あっ、でも私はアイドルのキモオタでもロリコンでもありませんよ。私のブログ記事の『[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達』や、『春だからハロプロとかさくら学院とかベビメタとかアイドルネタをやってみようか(妻女山里山通信)』を読んだ方は分かると思います。リンク切れの動画は検索してください。若い頃はアイドル雑誌のデザインをしたり、アイドルやアイドル志望の娘や若いモデルの撮影のディレクションもしていました。表参道でロケもしましたし青山のスタジオで朝から夜まで撮影をしたことも。懐かしい思い出です。女性起業家と知り合って、女子高生や女子大生を集めてシンクタンクをやったこともありました。芸能界や政財界に関しては知っていることを全部喋ったらその筋から消されるぐらい知っていますが、話してもどうにもなることでもないので、元妻にも息子たちにも友人にもあまり話したことはないですね。でも、我慢ならぬ不正についてはツイッターで呟いたりリツしています。怒りを忘れたら生きている意味がありません。ただ、当時はもう仕事大好き人間だったので、毎日が本当に充実していました。
(左)で、御徒町まで歩いてロンドン・スポーツへ。翌日が雨で低温と分かっていたので、パーカーを探しにきました。イタリアのミッテンテのお洒落な撥水防風パーカー18000円が、なんと3000円。即買いました。色はイタリア代表の鮮やかなアズーリ。ここは在京時代も息子たち共々本当にお世話になりました。今回は買えないけどマグロの目玉や鯨を買った吉池にも行きました。懐かしい中田商店やガード下の商店街へも。(中)山手線で有楽町へ。働く女性たちが反核、反原発、反米、反自民のデモをしていました。日本がなぜこんなに貧困になってしまったか。金持ち大企業のみ優遇と米の奴隷で世界中に金を安倍が勝手にばらまいているからです。その額はなんと70兆円。これだけあったら、保育園から大学まで全部無料にしても、とんでもないおつりが来ます。介護保険も要らないし破綻した年金も救えます。彼は血税を自分のポケットマネーと思っているのでしょう。その売国奴の原点は小泉竹中。JAL123便の陰謀、プラザ合意、仕組まれた円高、仕組まれたバブルとその崩壊、30年に及ぶ不況。いい加減に騙され続けていることに気付くべきです。
なくなってしまいましたが、近くにあったプランタン銀座で元奥さんがエコール・プランタンでカフェメニュー教室を開いていました。仕掛けたのは私です。そのメニューや画像はこちらの「マリングルメ」で見られます。かなりディープでお洒落です。(右)銀座通りへ。Appleのショールーム。外国人だらけです。仕事柄、Macしか使って来ませんでしたが、立ち寄る理由はないのでスルー。iPhoneだけでなくパソコンにももっと力を入れて欲しいです。
週末なので銀座通りは午後6時まで歩行者天国です。ルイヴィトンのビルから四丁目の交差点方向を見た風景です。仕事でもプライベートでも数え切れないくらい歩いたところ。この裏手の通りの方が、飲んだり食べたりと訪れています。今は長野県のアンテナショップ「銀座NAGANO」もあります。昔は外国の有名ブランドの店はほとんどなく、外国人も少なく、雰囲気が異なりました。なくなった老舗もあります。
(左)ブルガリ。(中)シャネル。(右)ルイヴィトン。今はこんな風に外国のブランドショップが並んでいます。私が盛んに働いていた頃にはなかった店ばかりです。息子たちと煉瓦亭に行ったり、仲間とみゆき通り裏の店で飲んだり、接待でクラブに行ったり、ガード下のメチャクチャ臭いタイ料理屋「あろいなたべた aroyna tabeta(移転)」に行ったりと銀座の裏表を楽しみました。若い頃は電通で仕事をしていたし、南米から帰国後は朝日新聞の本社にも通いました。そんな訳で東銀座や築地もよく知っています。旺文社や凸版印刷にもよく行ったので、神楽坂や秋葉原、御徒町もよく行きました。息子たちの七五三やイベントは、当時の家庭の事情でいつもホテル・オークラやその系列のレストランでした。そのオークラも建て替えですね。次々と想い出の場所が消えていきます。
(左)マネキンの顔も昔とはかなり変化しましたね。(中)文具の伊東屋。ここで買った万年筆は今も持っていますが、使う機会がなくなったのは寂しいことです。手紙を書く相手がいない。メールで済んでしまいますからね。スカイプでテレビ電話もできますし。返事がいつ来るかななんてドキドキしながら待つ日々も、もう過去のものです。(右)ティファニー。オードリー・ヘップバーンの『ティファニーで朝食を』に関しては、私の村上春樹さんがやっていた70年代の国分寺ピーター・キャットのエピソードを綴った『国分寺・国立70Sグラフィティ』 の『秋に似合うジャズ。ピーター・キャットでかかっていたあの名曲【枯葉】』 の記事をお読みください。なんで宝石店で朝食?という謎が分かるかもしれません。
(左)ホテルにチェックインして入浴し着替えて(デジタルプリントのシックなハイネックシャツにバッファローの黒のスタンドカラーのライダースジャケット、スキニージーンズにナイキのクリムゾンレーキのエアフォースのど派手なスニーカー)、会場の銀座のイタリアンレストラン『バラババオ』へ。既に同窓生が大勢集まっていました。この同窓会は、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科のものなんです。今は全国各地に美大や美術学部がありますが、当時は上京するしかなかったのです。そのため倍率は十数倍でした。ですから私を含め浪人が多かったし、そこを勝ち抜いてきた、言わばエリートなんです。ですから皆それなりのものを持っている人達です。今回再会して改めてそう思いました。(中)何十年ぶりに会う懐かしい顔。よく会っている人はともかく、疎遠な人は顔はなんとなく覚えているんですがお互い名前が出てこない。でも少しずつ記憶が蘇ってきます。(右)ひとりずつ卒業後の人生や近況を報告。本当に色々な人生があります。しかし、色々な事情で来られなかった人や亡くなった人もいます。これは高校の同窓会でも思いましたが、人は平等には年をとらないのです(中国の諺)。努力したから報われるものでもないですが、努力しないで報われるほど世間は甘くない。幸運もあるし、不運もあるけれど、それを乗り越えた人は美しい。そう感じました。数十年ぶりの再会は、本当に感動的でした。嬉しかったのは会った瞬間に女性たちから、「アッ!林く〜ん」て言われたことですね。普段は林さんか林〜いですからね。こんな風に言ってくれるのは同窓生の女子ならではですよ。本当に嬉しかった。愛してるよみんな。
実は私がいた専攻はテキスタイルで、同学年は3人だけ。専攻全体では短大や専攻科含めて120人ぐらいましたが、男性は教授、助手含めても10人しかいませんでした。毎日が花園でした。皆で行った研修旅行とか、今思えばもう天国ですよ。その後の編集プロダクションでも仕事で関わる人は、圧倒的に女性が多かったので、そのいいシミュレーションになりましたね。今ももっと女性に活躍して欲しいと思っています。
(左)拙書を紹介してURLカードを配ったのですが、大学時代の私を知っている皆が、私がこういう方向に行くと思った人はいなかった様です。まあそれは私自身が一番意外だと思っていますが。ただメチャクチャ凝り性でただ者ではないと感じていた仲間はいた様です。デザインはプロですし写真も分かるけど、文才があったとは驚いたとも。ワーカホリックで2度ほど死にかかったことのある私ですが、生きていてよかったなと沁沁と思った夜でした。(中)美大生なのでね皆それなりにダンディーでスタイリッシュなのですよ。なんていうか、深みを感じます。そして今なお何かを探し続けている好奇心と貪欲さを感じました。(右)もちろん人生はいいことばかりではありません。私も若い頃に仕事では自分の限界を感じ、村上春樹さん夫妻のアドバイスを思い出して南米へ200日の放浪に出ました。マフィアに襲われそうになったり、詐欺に遭ったり、旅客機が落ちそうになったり、数え切れないほどのもの凄いトラブルにも巻き込まれました。結婚生活と子育ては大変でしたが充実していました。大手広告代理店をライバルに某金融機関の依頼で十数億円のプレゼンに参加し、幾多の大手広告代理店を相手に勝ったこともありました。グルメの仕事で増えた体重を落とすためブックス・ダイエットで20キロの減量も経験しました。その後、色々あって協議離婚も経験しました。しかし、これからです。リタイアしたこれからが本当にやりたいことを突き詰められる時間なんです。ボケてなんかいられません。攻めますよ。
(左)課題提出の際には本当にお世話になりました。いやまさかここでお会い出来るとは。(中)食べて飲んで話すのに夢中で、料理の写真がほとんどありませんが、さすがイタリア大使館も認めるレストランです。美味しかったですよ。生ハムはもちろんパルマハム。ラザニアや挽肉のコロッケなど。テラミスなどのデザートも秀逸。私はビールの後、赤ワインを呑み続けましたが、詳しくは見ませんでしたがトスカーナの赤ワインですかね。たぶんボトル1本以上飲んでると思います。私は日本ではあまり紹介されていないカラブリア地方のオリジナルレシピもアップしています。(右)最後に記念撮影です。
(左)次回はもっと集まるといいですね。(中)学生時代のころに戻ってしまいますよ。戻れないですけどね。(右)お開きです。その後、10人ぐらいで近くの店で二次会。私もホテルに戻るだけなので参加。黒ビールをいただきました。そこでも、秘話が暴露されたりと楽しい時間が過ぎました。
(左)皆と分かれて私は京橋のホテルへと。ポーラ化粧品のビルの照明が綺麗でした。私は某化粧品メーカーのPR誌のアートディレクションを10年やりましたし、女優やタレント、モデルの撮影のディレクションのためにヘアメークの指示もしていたので、化粧品にもちょっと詳しいのです。(中)ウェディングドレス。こんなドレスを着た新婦の隣にタキシードを着て立っていた時も確かにありましたとさ。(右)黄花の向こうにアウトドアのモンベルのショップ。私も全部ではありませんがお世話になっています。高速下の韃靼そばの「恵み屋」まだあるかなと覗いたらありました。ホテルに帰還してお風呂に入って就寝。
(左)翌日は風呂に入ってからチェックアウト。雨の朝の銀座を有楽町まで歩いて、10時に東京在住の次男とヨドバシカメラ本店の前で待ち合わせ。久しぶりのデートです。昔は彼と横浜中華街デートとかしました。横浜中華街の情報は、私のオリジナルレシピの中華料理の一番下にリンク集があります。(中)カメラ館とか色々見て歩いてコーヒーを飲みたいと。スタバとかチェーン店はいやだと言ったら彼が案内したのが本店裏のここ。行ったことはないそうだ。「コロラド バウンド」。(右)いやあ凄く怪しくて心惹かれる。店名がまずおかしい。看板がおかしい。自家焙煎が怪しいがこれが肝。
(左)地下に下りる階段がヤバイ。なんだこの変なイルミネーションは。貼ってあるポスターとか置物にも一貫性が全く無い。気に入った。(中)で、店内はこんな。年季の入ったおばちゃんがタバコ吸いますか?ってお客は誰もいないのに。吸いませんと言ったら、じゃあどこでもいいですと言われて案内された席がここ。次男はアイスコーヒーを、私はそれしか飲まないモカを。次男がなんでニヤニヤしているかというと…。この店は基本アメリカン・グラフィティの世界なんですけど。壁に変な油絵があったりなんかグチャグチャなんですよ。でなんで店名が「コロラド バウンド」なんだと二人で考えたんですけど分からない。笑うしかないです。デコラのテーブルは割れて盛り上がっているし、メニューはどう見ても十年以上前のものだし。
で帰って調べました。「Townes Van Zandt - Colorado Bound」。直訳すると「コロラド縛り」となります。コロラドに閉じ込められてとかいう意味ですかね。ロッキー山脈の麓で海がないし標高が高く、なんだかアメリカの信州って感じですね。州都はデンバー。カントリーウェスタンのメッカですね。私も子供の頃あの山(北アルプス)の向こうに行きたいと思い続け上京しましたから。前記の歌詞を見ると、やはりコロラドに魅了されてどこへも行きたくないという歌ですね。信州にも魅了されてもうどこへも行かないという人がたくさんいます。帰郷してスーパーの入り口の大きなガラス窓から鹿島槍ヶ岳がどかんと見えた時に私もそう思いました。
(右)私のモカが出てきたんですけどね。味は確かにモカ。でもねと思っていると、おばちゃんが「なんか薄くない?アメリカンみたいじゃない?作り直すわ」と。500円ですからね。作り直してくれたモカは美味しゅうございました。しかし、このカップ何気にロイヤル・コペンハーゲンだったりして。私も職業柄というかコペンとかウェッジウッドとか有田焼とか備前焼とかお店をやれるほど高級食器をたくさん持っているのですが、倉庫の中。毎日100均のマグカップでコーヒーを飲んでいます。
で、話はこれで終わらないのです。は?客が来た。若い女性が来ました。タバコ吸いますかで吸いますで奥の席へ。すぐ若い男性が彼氏かと私も息子も思いましたが、そうではない様でタバコ吸いますか?ですぐ隣のテーブルへ案内。もうね息子と苦笑ですよ。なんで他人なのにがら空きなのに隣にするんだよって。逆に変な風景です(笑)。でもこれが縁で愛が生まれるかも。ええ私たちはタバコの煙が嫌いなのですぐ出ましたけどね。いやあ面白い店でした。聞いたら開店から35年だそうです。これだから東京は面白いんですよ。チェーン店なんか行ってる人はもったいないですよ。あれはただの工業製品です。本当に面白い店があるのが東京。食べログなんかじゃ分からない、いい店が隠れています。冒険しましょう。
(左)ハラ減ったなと行ったのが東口の回転寿司『沼津港』。ここは店の場所は違いますが私が在京中に何度も行ったことがあり、店舗数も少ないし回転寿司の中では旨いので。いくらでも食べていいよと言える数少ない店でもあります。中国人や外国人が多かったですね。二人で18皿食べましたが、一番美味しかったのは生のボタンエビ。1貫520円だったかな。高いけど身の握りに味噌が入った頭が付いてきます。これは絶品でした。個人的に気に入ったのは大鰯のにぎり。鮮度がよくて馬鹿旨でした。他にはあん肝や鱈の白子、サヨリ、甘エビ、真つぶ貝やアオリイカなど。
回転寿司で私が絶対食べないのはマグロとマヨのかかったもの。回転寿司やスーパーの寿司のマグロを食べると、本当にいいマグロの味を忘れてしまうからなんです。「久兵衛」のマグロで一番好きなのは赤身。大トロの味が食べたければ中トロ。大トロはそもそも選択肢にありません。で、二人でお腹いっぱいで7000円弱。いいと思いますよ。産地が表示されているのもいいですね。庶民的なのにレベルが高いのがいいです。
(中)伊勢丹本館。いいですね。息子によると耐震工事も終わったそうで、こういう建物は残して欲しいですね。(右)地下街を通って西口へ。次男にメンズノンノみたいな写真撮ってやるわと言ったけどコンデジではこれが精一杯か。いやこれ背景に照明もってきちゃだめでしょ。でもフラッシュは嫌いなんでね。親の私が言うのもなんだが、背は高いしイケメンだし、性格もいいし、構造計算できる建築士だし、今彼女がいないので推薦してくだされ。さくら学院とBABYMETALが好きなアイドルオタクだが、自転車と山登りが好きなリア充の側面もあります。長男と共にサッカー小僧。小さい頃からペーパークラフトが得意で、日テレのスッキリ!!や朝日新聞、東京新聞などの取材も受け、展覧会も何度もしています。彼らのサイト「T&T SUTUDIO」。最近の作品は、長男がブログにアップしています。二人のブログへは、このブログの左のブックマークから飛べます。
私は外国放浪を何度もしていたのもあって、息子たちとは10歳ぐらいまで出掛ける時は必ずハグしてキスをしていました。もちろん奥さんともね。スキンシップを大事にしていたのです。長男の低学年のときの担任の女性教師が、「帰ってきたら宿題はとかではなくて、抱きしめてください」と言ってくれて、彼女は分かっているなと思いました。子育てでスキンシップは大事なんです。私は息子たちに問題が起きた時にこうしろと指図したことは一度もありません。どうすればいいと思う?どうしたい?といつも考えさせるようにしました。勉強しろと言ったことも一度もありません。むしろ宿題なんかいいから遊びに行こうと言って息子に怒られたことがあるほどです。ホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』を読んだことがあるでしょうか。人は遊んでこそ人なのです。どんなにいい大学出ようが社畜の人生などまっぴらごめんです。アートディレクター時代には東大卒や六大学卒の人達を相手に仕事をしましたが、敵わないと思ったことはありません。確かに頭はよく出来たものに対する評価は実に的確です。しかし、想像力と創造力が全く無い。これが日本の教育の最大の欠点です。
(左)で、西口広場を歩いたらいつもの怪しげな露天街の前でアイヌの人達のイベントが。これはいいねと。(中)一番ちっちゃい娘が可愛い。眼力があって、魅了されました。この娘は将来が楽しみです。アイヌと沖縄人は別民族に思われていた歴史があって差別もされていたが、DNA的には本土の人とそう変わりはない。むしろ今の半島の人達との方が遠いということは証明されている。伝統的な模様は、縄文を想起させます。興味あればアラハバキやミシャグジで検索すると、古代倭人の歴史が分かります。古代科野国の大陸との関係は、郷土史研究家の私の最も興味ある分野で研究を続けています。人類はアフリカに生まれて南米の先端まで行ったほど活動的で精力的なんです。理由は好奇心。放浪癖がありアマゾンまで行った私がまさにその体現です(笑)。今もその想いを胸に里山の藪山を歩いているのです。あなたの人生はあなたのもので一度しかないのです。好きなことをやりましょう。(右)次男が連れて行ってくれたのはオリンパスのショールーム。長男も次男もスバリストでオリンパスユーザーなんですが、実は私がオリジナルなんです。学生時代に初めて買った一眼レフがオリンパスのOM-1。息子たちに買い与えたコンデジもオリンパスでした。そんなでここに立ち寄ったのですが、ここでスタッフの皆さんとそんなことを話して、拙書を紹介してブログを紹介したら早速見てくださって。おまけにRAWデータがいじれないという問題にも色々応えていただき、有意義な時間が過ごせました。お姉さま二人が、次男が持っていたオリンパスのカバンに並々ならぬ関心を持たれていたのですが、無理はありません。70年代のオリンパスOM-1のバッグなんです。このカメラは次男にあげたんですが、その縁でこのバッグを探して買ったんですよ。私が一緒に仕事をした岩合光昭さんの話などやオリンパスの開発の話なども聞けて本当に楽しく有意義な時間を過ごさせて頂きました。今回の写真は全て最近買った新製品のオリンパスタフTG-5で撮影したものです。彩度と色味がやはりコンデジなのでフォトショップで補正していますが、もうコンデジとしては最高峰のレベルです。
信州に戻る時間が近づいてきました。バスタ新宿からガラス越しじゃなくて撮れるとこがあるよと次男に教わった場所から。代々木方向です。左の高島屋の向こうにあった紀伊國屋書店はなくなってしまったとか。ビブリオマニアだった私としては、本当に哀しい限りです。発車を待つ成田エクスプレス。若い頃はカルチャーショックを求めて欧州やアマゾン、アンデスなど海外を放浪しまくりました。成田エクスプレスや空港バスを見ると、その頃の旅立つ高揚感が蘇ってきます。で、東京土産に買ったのがサザンテラスの宮崎県のアンテナショップの炭火焼き鶏と液状柚子胡椒。東京土産に宮崎県産かよと次男に笑われましたが、昔から好きなんです(笑)。チキン南蛮と冷汁は。自分でもっと美味しいのが作れれるのでパス。
今回新宿ゴールデン街や事務所があった一番馴染み深い原宿には行きませんでした。原宿は昔から入れ替わりが激しく面影がないのです。事務所の建物もないし、当時はデザイナーズブランドのものを職業柄着ていたのですが、その店もほとんどありません。あるのはビームスぐらいですかね。スーツはほとんど着る機会がなかったのですが、お気に入りはヨージ・ヤマモトの Ys' for menでした。冠婚葬祭にはイタリアのあるブランドのブラックスーツを。コートはステンカラーのビームスインターナショナルのライトベージュのダスターコート。カーキ色のキルティングのも持っています。ニットはミッソーニとかはビートたけしが着ていましたが、なんだかなあでミカエルロスとかを。当時着ていたフレンチカジュアルのショッキンググリーンのロングパーカーは長男に、ロンドンで買ったロンドンコートは次男に譲りました。それにしてもビームスと同じビルで友人がやっていた宝石店もないし。同潤会アパートもないですしね。仕事柄アンテナショップのアパレル店舗やレストランができると必ず行きました。でもある時期からパターン化してつまらなくなりました。それにしても原宿は変化が激しすぎます。
(左)信州に帰ります。バスは三列ですが右だけ独立シートです。私は最後尾。反対の窓際にひとり可愛い女の子。面白い娘でしたが、おじさんはちょっと心配にもなりました。(中)雨がそぼ降る新宿バスタ。真ん中は成田空港へのバス。大きなバスターミナルですが、サンパウロのは120もプラットホームがあり比較できないほど大きなものでした。ブラジル放浪のフォトエッセイ「ーここから全てが始まった<アマゾンひとり旅>」。(右)いやあ楽しかった。けれど次の上京はあるのだろうかとも思いました。それは私のツイッターをずっと見ている人は分かっているだろうと思います。東京は25年経って健康な子供が5%しかいないウクライナよりも放射能汚染が酷いのです。米エネルギー省国家核安全保障局(NNSA)のデータ。東京初め首都圏にどれほどの放射性物質が降ったかこれを見れば一目瞭然。終わりの始まりはすでに始まっているのです。都が一人あたり3600ベクレル内部被曝している(希ガスを除く)の発表からも分かるはず。それを知らないなら情報弱者。私はチェルノブイリの事故の3年後にノルウェイの友人(母娘)を訪れて、汚染の酷さを知りました。2000キロも離れているのに川魚とキノコは食べては駄目と言われました。詳しくは『ノルウェーの森・センチメンタルジャーニー』をお読みください。福島と東京の距離は? 東京を汚した東電と自民党を私は絶対に許しません。
雨の碓氷サービスエリア。信州では、電車や列車で移動することがほとんどないのです。バスも稀。近くのコンビニやレストランさえ自家用車です。なので全て自分の主体性に任されるのです。今回久しぶりに上京して、その違いに愕然としました。田舎は自由です。だからアバウトなんです。でも東京の人は本当によく歩く。でも平らなところなのでダメージが大きい。インナーマッスル(体幹)を強化にするには階段の一段抜かしとかスクワットをしないとだめです。電車では吊革につかまって少しつま先立ちエスカレーターは絶対に使わない。そうやって鍛えていました。逆に田舎だと相当自覚しないと鍛えられないのです。
普通カメラマンならこういうぶれた写真は使いません。私はアートディレクターをしていたので、時にはブレていても露出がおかしくても琴線に触れれば使うのです。その方が感情や情緒を表現するのに適している場合があるからです。涙で滲んでしまうそんな風景もあります。今回は動画は撮りませんでしたが、もう少し感性を磨いて次回は動画も撮りたいなと思います。とにかく最高なセンチメンタル・ジャーニーでした。
さて、帰郷後は仲間と里山保全や黒大豆で味噌の仕込みもしないといけないし、何より撮影にあちこちの山に登らないと。錦秋はアッという間に過ぎて長い冬になってしまう信州です。
◉それから私がガイドしたBS-TBS「諸説あり!」川中島の戦い(仮)の放送時間です。
11月11日(土)夜10:00〜10:54 興味があったら観てください。私も少し映るかもしれません。
BS-TBSの歴史番組のガイドで鞍骨城跡へ。秋めいてきた妻女山山系(妻女山里山通信)
今回都内を電車で移動している時にふと思い浮かんだ曲があります。名曲だと思います。今は遠いある女性を想い出します。初めて出会った時、彼女は大学出たての編集初心者で赤いダッフルコートを着ていたので、私の事務所では赤ずきんちゃんと呼んでいました。「赤毛のアン」が大好きな知的で可愛い女性でした。付き合ったこともあるのですが、当時の私は忙しすぎて。家の事情でか、突然彼女は帰郷してしまい、今ならメールもスカイプもありますが、当時はなかなか連絡もとれずにやがて疎遠になりました。私が帰郷した後でなんとなく思い出し調べてみると、再び上京して某出版社のファッション雑誌の編集長をしていることが分かりました。分かったのは彼女が独身で名字が変わっていなかったからです。少しショックでした。今はリタイアしたのでしょうか。元気でいるといいのですが…。尊敬できる女性でした。
私は今までの人生で結婚したいと思った女性が三人いました。最初の人は村上春樹さんのことを書いたブログにも記している今は英国在住のピアニストの女性。スクリャービンの演奏で有名。米の大学で教えたりアルバムもいくつか出しています。イースターの休みに二人でパリに旅行しましたが、パリジェンヌが振り返るほどの華がある美人で、才能豊かな女性でした。二人目がこの編集者の女性。三人目が実際結婚して息子二人を育ててくれた女性。年齢は一回り年下でした。12歳違いましたが、私は成人したら年の差は関係ないと思っていました。大人ならいくつでも対等に付き合えるはずです。そうですね、スレンダーで小顔で、頑張りやさんだけど甘え下手でしたかね。水彩画の才能があったのでそこを最大限に伸ばしてあげました。よく頑張ったと思います。料理は何も出来ない人だったのですが、家庭環境で非常に高いベースがあったので、基本を教えると伸びてプロレベルになりプランタン銀座で料理教室をするまでになりました。結婚する前に、彼女に想いを伝える方法として私が選んだのは、馬鹿でかい花束を突然送るというものでした。仕事の打ち合わせの後で原宿駅まで送る途中に「今日誕生日なの」と言われて、待っててといってコープ・オリンピアにあった高級生花店に入って真紅の薔薇の凄く大きな花束を作ってもらい「おめでとう」と渡したのです。彼女とは協議離婚しましたが、結婚生活に後悔はありません。人生は色々です。彼女は今も頑張って仕事をしています。
■駅 竹内まりや
◉『国分寺・国立70Sグラフィティ』 村上春樹さんのジャズ喫茶、ピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクルまたはスラップスティック「見てもらうと分かるのですが、ムサビ時代の同窓生の写真を勝手に使っています。今回それをごめんねと事後承諾をもらえた?のも良かったなと思いました」とさ。 #村上春樹 #HARUKI-MURAKAMI
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
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インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。