



わが家に一枚の写真と「定慧」と書かれた額がある。写真は岩野の旧家の庭で、晩年政治の倫理化を唱えて全国を遊説中の後藤新平が写っている。松代のはずれの寒村になぜ彼がわざわざ来たのかは父も祖父から聞いたことはないそうだ。時は大正から昭和へ時代が移る頃。右から二番目が祖父である。
後藤新平は、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちのNHK)初代総裁、拓殖大学第3代学長を歴任した。関東大震災後の首都復興の計画のあまりの壮大さに「大風呂敷」などというあだ名までつけられたが、その先見の明は常人のそれをはるかに越えるものだった。
新平が倒れる日に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという逸話は有名だ。
「定慧」というのは、禅の言葉だ。「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければならないという。完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といい、覚醒した状態から世界を照らし見る働きを「慧」という。難しい…。
この書は、当時若い村会議員だった祖父ともうひとりに贈られたという。前途のある若かった祖父に、何か託するべきものを感じたのだろうか。この後、日本は戦争の時代へと突入していく。天国の彼は、その様を何を思い見下ろしていただろうか。
★【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平