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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

上杉景勝、直江兼続も登ったかもしれぬ古道で「鞍骨城」再び(妻女山里山通信)

2010-01-10 | 歴史・地理・雑学
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 新年最初の山歩きは、旧友N氏を伴って「鞍骨城跡」に再び登りました。ちょうど彼が手作りの醤油を持って行きたいというので、ではこちらは自家製の少納言小豆や父手作りの七味唐辛子を持って物々交換と。ついでに山でも登ろうかということになり、彼がまだ行ったことがないというので、旧埴科郡の山城の中で最大の「鞍骨城」へ行こうということになりました。

 年末は、林道倉科坂線から高圧線鉄塔巡視路を登りましたが、今回は1583(天正11)年に北条氏との決戦に備えて上杉景勝と直江兼続が陣取ったとされる赤坂山(妻女山)から鞍掛山(鞍骨山)へのルートを、斎場越などなるべく古道を辿って登ってみました。

 暖冬で林道はぬかるんでいましたが、北側はすっかり凍結しました。妻女山展望台への舗装路もカーブや日影は凍結しているので細心の注意が必要です。当日は猪狩りの猟師がたくさん入っていました。彼らが行くのは土口の蟹沢(がんざわ)方面。私達は尾根筋を行くので問題はないのですが、追われた猪が血相を変えて逃げてくることもあるので、これも要注意です。

 三つの深い掘切を超えると目の前に鞍骨城跡がそびえ立ちます。冬枯れの季節が最もその全貌を掴みやすいのでお勧めです。熊や蜂、蝮の心配もありません。積雪は10センチ弱。スパッツやアイゼンが要りませんが、雪に隠れた浮き石や、南面では厚く積もった柏の枯葉に滑らないよう要注意です。

 始めて訪れたN氏は、その山城の規模と険しさに圧倒されたようでした。また、ヤセ尾根からの展望の素晴らしさにも驚嘆していました。そこへ雨宮の唐崎城跡から登ってきたという方と遭遇。なんでも、途中で追いあげられた猪を見たそうです。下りてから猟師に聞くと逃げられて一頭も仕留められなかったとか。

 城跡の南面の帯郭でまったりと昼食の後、下山。往路に天城山の坂山古墳を見ましたが、帰路では清野古墳を見学。堂平大塚古墳のことを話すと見てみたいということで立ち寄りました。運良く古墳の持ち主のKさんが作業中でした。千曲川を見下ろすログハウスのデッキで、コーヒーをご馳走になりながらしばし歓談。山の手入れの話や古墳や歴史の話で楽しい一時を過ごさせてもらいました。

 クリスマスに鞍骨の近くで月の輪熊の足跡を見たことを話すと、去年の3月には二本松峠の先で親子連れの熊が目撃されたという情報を得ました。暖冬のためか熊の冬眠(正確には冬ごもり)が送れ、目覚めが早くなっているのではないかということが考えられます。鞍骨山に登りたいという方は、熊対策(熊鈴・笛・ラジオ・爆竹など)が必須です。鞍骨から天城山の尾根は熊の通り道で、目撃例は頻繁にあります。

 堂平大塚古墳の後は、斎場山古墳と御陵願平への斜面にある通称旗塚と呼ばれる塚を見学して下山しました。春にはY高校美術班の旧友を誘って、カタクリを愛でながら山城と古墳巡りの山行をしようと計画を立てました。

●1582年(天正10)6月、織田信長が京都で討死したため、上杉氏を攻めて、越後二本木まで侵攻していた森長可は、急遽兵をかえして、信長の弔合戦のため京へ向かいました。それを追って上杉景勝は北信濃に兵を進め、北信濃の諸士に服属を求めそれぞれの本領を安堵させます。
●海津城に入った景勝は、小県の真田昌幸や、筑摩の小笠原貞慶に備えて、陣中にあった村上源吾景国を海津城将にすえ北信濃四郡を統轄させることにし、埴科の諸士にもそれぞれ配備を行ないました。寺尾城は寺尾伝左衛門。西条城は西条治部。東条城は東条左衛門。大室城は大室弥治郎。屋代城は屋代秀正。猿ヶ馬場の竜王城は清野左衛門尉信昌にそれぞれ守らせました。
●1583年(天正11)7月、上野国から佐久郡を経て小県郡に侵入した北条氏直は、小県方面の諸士に服属を求めました。その勢の強大なのを見て、真田昌幸をはじめ祢津、望月氏など氏直に臣属を約しました。
●この時、武田氏の旧臣であった春日弾正忠は、先に上杉景勝に属して海津城将として在城していましたが、北条氏直の小県侵入によって、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとしましたた。しかし、これは事前に発覚して、弾正忠は捕えられ殺されました。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)に陣取りし、麓の赤坂山(妻女山)にかけて御旗を立て兵を並べました。その様を見た北条軍は、驚いて一戦も交えることなく撤退したとも伝えられています。

★鞍骨城の清野氏については、「清野氏と戦国時代」をお読みください。

★このトレッキング・ルポを、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。
 古城巡りは、尼巌山城跡・狼煙山砦跡・鷲尾城跡・葛尾城跡・県山城跡・東山城跡などもあります。

●鞍骨城跡トレッキング・ルポ
■06/12/31 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城往復。
■08/12/30 象山から鞍骨城、斎場山、薬師山のルポ。
■09/01/18 鷲尾城跡から鞍骨城跡、御姫山、妻女山。
■09/03/01 倉科三滝から鏡台山、御姫山、鞍骨城跡、妻女山。別働隊のルート?
■09/04/12 妻女山から陣場平、天城山、鞍骨城、妻女山。
■09/12/25 千人窪・風雲寺・古峯神社・鞍骨城・松代城・埴科山脈パノラマ。

●古墳巡り
■08/12/13 堂平大塚古墳・斎場山古墳・土口将軍塚古墳ルポ
■08/08/10 森将軍塚古墳・大室古墳群ルポ

★また、川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

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