花曇りのあんずの里へ。毎年恒例のあんず祭は新型コロナウィルスの蔓延で中止です。用事を済ませて着いたのが10時半。人はほとんどいません。静かです。
満開ですが、なにか花に勢いがないですね。やはり暖冬の影響でしょうか。寒さが美しい花を育てるのかもしれません。
毎年新しいアングルを求めて右往左往します。このカットも青空だと絵葉書みたいになってしまうのですが、いい感じの曇り空で杏の花が静かに際立っています。樹下にはカキドウシやホトケノザ、ヒメオドリコソウが咲いています。
杏の果実を採る新品種の左奥に、江戸時代からある在来種の大木。
その花のアップです。花のピンクが薄く、遠目に見ると雄しべの黄色と合わさって、コーラルピンクに見えます。高校時代に教室の窓から見た森のあんずはピンクではなく、やや黄色みを帯びたコーラルピンクの風景でした、。
あんず畑の古い樹。枝を横に這わすのは、日当たりを良くするのと収穫しやすくするためです。
毎年必ず撮影する杏の在来種。在来種といっても色々あるのです。そういう記事もアップしています。左のアーカイブから各年の4月の記事を御覧ください。
その花のアップ。この樹が私のお気に入りです。
禅透院へ。在来種の向こうに鐘楼。右奥に見える黄色い花はサンシュユ(山茱萸)。ここは周回路の途中にあるので、歩いて立ち寄る人も多いのですが、この日はまばら。
そこから母方の祖母が眠る興正寺へ。本堂から見る山門と鐘楼と枝垂れ桜。奥に見える山は、拙書でも紹介の三峯山。
興正寺本堂内部。祖母の葬儀の時に参列しました。
山門の子持龍。天才・立川和四郎富昌の作。一見の価値があります。和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。
彼の木彫は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。
山門から見上げる枝垂れ桜。
興正寺の上からのあんずの里の眺め。高校時代に教室から見えたあんずの里は、茅葺きが主でした。小麦色や茶色の連なる屋根とコーラルピンクの杏の花との柔らかな配色が、現在の瓦屋根などの配色とは全くことなり、とても趣がありました。
帰路に立ち寄る岡地。西に山があって日暮れが早いので半日村と呼ばれます。花見客も訪れない穴場です。
その山際にあるお天神さん。岡地天満宮。
この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。 岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。更にその後しばらくは、松代の長国寺にあったとあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。
現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり、天満宮だけがあります。天満宮には、かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。
またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」と)かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
満開ですが、なにか花に勢いがないですね。やはり暖冬の影響でしょうか。寒さが美しい花を育てるのかもしれません。
毎年新しいアングルを求めて右往左往します。このカットも青空だと絵葉書みたいになってしまうのですが、いい感じの曇り空で杏の花が静かに際立っています。樹下にはカキドウシやホトケノザ、ヒメオドリコソウが咲いています。
杏の果実を採る新品種の左奥に、江戸時代からある在来種の大木。
その花のアップです。花のピンクが薄く、遠目に見ると雄しべの黄色と合わさって、コーラルピンクに見えます。高校時代に教室の窓から見た森のあんずはピンクではなく、やや黄色みを帯びたコーラルピンクの風景でした、。
あんず畑の古い樹。枝を横に這わすのは、日当たりを良くするのと収穫しやすくするためです。
毎年必ず撮影する杏の在来種。在来種といっても色々あるのです。そういう記事もアップしています。左のアーカイブから各年の4月の記事を御覧ください。
その花のアップ。この樹が私のお気に入りです。
禅透院へ。在来種の向こうに鐘楼。右奥に見える黄色い花はサンシュユ(山茱萸)。ここは周回路の途中にあるので、歩いて立ち寄る人も多いのですが、この日はまばら。
そこから母方の祖母が眠る興正寺へ。本堂から見る山門と鐘楼と枝垂れ桜。奥に見える山は、拙書でも紹介の三峯山。
興正寺本堂内部。祖母の葬儀の時に参列しました。
山門の子持龍。天才・立川和四郎富昌の作。一見の価値があります。和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。
彼の木彫は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、同市屋代の須々岐水神社、土口の古大穴神社にも富昌の作があります。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。
山門から見上げる枝垂れ桜。
興正寺の上からのあんずの里の眺め。高校時代に教室から見えたあんずの里は、茅葺きが主でした。小麦色や茶色の連なる屋根とコーラルピンクの杏の花との柔らかな配色が、現在の瓦屋根などの配色とは全くことなり、とても趣がありました。
帰路に立ち寄る岡地。西に山があって日暮れが早いので半日村と呼ばれます。花見客も訪れない穴場です。
その山際にあるお天神さん。岡地天満宮。
この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作のものと伝えられています。 岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。更にその後しばらくは、松代の長国寺にあったとあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。
現在では華厳寺は檀家も途絶えて廃寺となり、天満宮だけがあります。天満宮には、かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。さらには、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。
またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」と)かの米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像があります。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。