名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

世界・歴史遺産を訪ねて  12.トルコ、イラン、中央アジア

2021-07-04 11:54:00 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 実は、これらの国にはまだ出かけていない。インドを最後に、躊躇していたが、前に
進むために、訪問願望を記載して、記事を進めることとした。
 オスマントルコ帝国、ペルシャ帝国、チムール帝国などの歴史遺産、モンゴル(チン
ギスハン)の攻撃で崩壊したホラズム帝国の首都、サマルカンド、などの様子をこの目で
見てみたいが、コロナ禍の中、また政情不安な国があり、当面、近づけない。
 博学な皆様に紹介するような内容では無いが、避けて通るわけにもいかないので、
歴史書やインターネット上から写真を借りて投稿し、これらの国々や歴史遺産を偲び
ながら、パスすることとしたい。訪問願望を記事とすることをお許し願う。
 
1.イスタンブール /トルコ
  ボスポラス海峡を挟み、アジアとヨーロッパを結ぶこの地は東ローマ帝国の首都
(コンスタンチノープル)として栄え、その後、オスマントルコ帝国の首都(イスタンブール)
として栄えた。東ローマ帝国が持ち込んだキリスト教文化は、イスラム教(スンニ派)を信奉
するオスマントルコ帝国により、殆どがイスラム様式に変更されている。17世紀に強国と
なったオスマントルコ(スレイマン2世)はバルカン半島を制圧し、北上してウィーン包囲
を行い、ヨーロッパを震撼させた。

2.ペルシャ帝国 /イラン
 帝国としてのペルシャは、アケメネス朝ペルシャ(BC550~BC330)とササン朝ペルシャ
(AC226~AC651)が有名である。アケメネス朝はマケドニアのアレクサンダー大王に
滅ぼされ、ササン朝は7世紀に台頭してきたイスラム勢力に敗れた。現在のイランの基礎
はサファビー朝のアッバース1世(1588~1629)が築いたといわれる。イランは現在イスラム
教シーア派の盟主となっている。都市遺跡としてはペルセポリス、イスファハーンの遺跡
が有名である。

3.サマルカンド /ウズベキスタン
 シルクロードの要衝都市として栄え、ホラズム帝国(1077~1231)、チムール帝国(1370
~1507)の首都としても栄えた。ホラズム帝国はチンギスハーンの攻撃により瓦解した。
サマルカンドに現存する遺跡はチムール帝国時代の遺跡である。

 稚拙な願望で、恐縮でした。

<参考> 次は、13.シンガポールです。https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/ff80ab75ae1549c53469e9b739a4f360


世界・歴史遺産を訪ねて   11.北インド

2021-05-22 09:33:06 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

  北インドに君臨したムガール帝国は16世紀中場から17世紀末にかけて全盛となり、
19世紀中(1858)には、進出してきた英国の東インド会社によって滅ぼされる。皇帝は
イスラム教を信奉し、民衆はヒンズー教徒が多数を占めたようだ。2代皇帝フマユーン、
3代皇帝アクバル大帝、5代皇帝シャージャハン、6代皇帝アウラングゼーブが有名だ。
 最近、コロナ禍に関連して、テレビにガンジス川での沐浴のシーンが映されるが、
これらの映像に見られるように、混沌とした国という印象が残っている。私が訪れた時
から10年近くが経っているので、多分、インフラ投資が進み、綺麗になりつつあると思う
が、過去と現代が入り交じった国だ。
 戦後の日本、鄧小平の中国が近代化によって、急生長したように、インドもまた、早く
近代化が進むよう、陰ながらエールを送りたい。

 さて、歴史遺産を巡るインド旅の全容は既に投稿した下記の記事をご覧いただき、
再投稿は省略させていただく。 ①記事だけでも、ご覧いただけると幸いである。

①北インドの史跡と庭園  登録:2020.6.19
                   旅行:2014.3.2~3.7    https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/fd86ce1abeafa323e2ec6ec186b349b3

②北インドへの春旅  -ムガール帝国の往時を偲ぶ- 登録:2014.3.11
                                        旅行:2014.3.2~3.7       https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/48c7b6f9a67791d319acfcf6413c12fb 

  以上です。

<参考> 次のは 12.中央アジア です。  https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/1fc4fbba77391f33962982cf37600218

 


世界・歴史遺産を訪ねて  10.アテネ (ギリシャ)

2021-05-15 07:21:54 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

世界・歴史遺産を訪ねて  10.アテネ (ギリシャ)

 行くまでは、ギリシャの経済破綻や難民問題が気になっていたが、かなり落ちついて
きていたので、興味のある国だけに出かけた次第だ。
 自作旅でいろいろ不安もあった。まずは、エティハド航空というアブダビ乗換アテネ行
きの飛行機で、中部空港発でしかも北京経由という、乗換苦手な私にはハードルが高
かったが、実際にはなかなか快適な旅で、アブダビ乗換も簡単な英語で用事が足りた。
 アテノ空港に着いた後、空港に出迎え付でホテルまで送り届けてもらったので、問題
なく目的地に着くことができた。旅行途中にスリに遭って往生したが、ガイドの支援で、
何とか対処できた。
 ところで、本題ですが、この旅の内容は、既に投稿記事が良くできているので、興味の
ある方は、下記のアドレスをクリックして、ご覧いただきたい。①、②がお薦めです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
①古代遺跡を探る_1~3    登録:2019.7.11~
https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/433d0a6083ba8a3bf4167f4ef7181d6f

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/e428569bc9cd2ec8d6c7896146385907

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/51e51d571150f7021cd9ceee42ed0953


②アテノの旅/旅行記  登録:2019.6.15

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d628f5b488fffe38e560fc2ec58512d0


③ギリシャの庭園は・・・・  登録:2019.7.19 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/00b30c2251931ae7cf9164c8051e4a45


④ギリシャに見る植物達_1~4  登録:2019.7.1 ~
https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/1e9384c244738188d1cf841a3f4148c4

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/c80b0b5e62a2de448a24d3622acb0d4a

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/695e2d4bde631945992829217f689273

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/e8101e7c720629112b4a7a7fb69836dc

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上です。

<参考> 次の国は 11.インド です。  https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/ae2bff20b64f62bc3484f9c1eaa962ac


世界・歴史遺産を訪ねて  9-2 ハンガリー平原

2021-05-05 17:46:34 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 ハンガリーとフン人の歴史を少し勉強してみました。民族の大移動は東のモンゴル高原
から中央アジア、東ヨーロッパ、西ヨーロッパへと遊牧民の移動が繋がっていることが少し
分かったような気がします。受け売りの稚拙な文章で恐縮ですが、興味のある方はご覧
下さい。

匈奴とフン族

 匈奴の西進、フン人の大移動の関係は?==>直接的な繋がりは証明されていないが、
両民族の生活習慣が似ているとか、匈奴を「フンヌ」と発音するとか類似性が多いと指摘
する学者もいるようです。
 
匈奴の西進

 BC202年、前漢を立ち上げた劉邦はBC200年に匈奴との戦いに敗れ、屈辱的な
和解をした。7代皇帝、武帝(劉徹)の時代になると漢が力をつけ、BC129年以降、
衛青、霍去病などの大将軍を派遣して、匈奴を北へ退けた。また、張騫を西域に派遣し、
大月氏国と共に西域を平定(BC59年西域都護府設置)し、匈奴を退けた。その後、
匈奴は内紛が発生し、帝国はAC48年には南北に分裂し、AC91年には帝国としては
消滅する。
 匈奴は分裂して西に移動したが、一部がフン人となって民族大移動の引き金となった
という説もある。(学術上、直接的な関係は、まだ証明されていない)

フン民族、ゲルマン民族の大移動

 中央アジア、コーカサスの遊牧民フン人は4世紀頃から西に移動し、現在のハンガリー
平原に陣取り、周辺の民族をさらに西へ追いやった。ゲルマン系のゴート族は現在の
フランスや北イタリア、イベリア半島に移動しゴート王国(東、西)をたてた。5世紀半ばに
フン帝国(アッティラ王の時代)は最大範図となるが、以降衰えていく。その後ウラル山脈
南部にいたマジャール人が南下し、ハンガリー平原に陣取り、フン人等との混血を繰り返し
現在のハンガリー人になったと考えられる。
 ゴート族の移動はゲルマン民族大移動の始まりである。

 ハンガリー平原

 ハンガリー平原は肥沃な草原が広がり遊牧民には垂涎の地であった。454年、フン族の
帝国崩壊後もアジア系遊牧民が侵入が続き、根拠地とされた。またスラブ系やオスマン・
トルコの侵入・支配するところとなった。1699年にはオーストリア・ハプスブルグ家がオスマン・
トルコに勝ち、ハンガリーはオーストリアに編入された。その後、民族自決の気運が高まり、
1867年には、独立したが、オーストリア帝国と同じ王様をいただく、オーストリア・ハンガリー
二重帝国となり、1914年の第一次世界大戦を迎える。戦後はハンガリーとして独立するが、
第2次大戦ではドイツ側に組したためソビエト連邦軍の侵攻を受け、戦後は東側に組み入れ
られた。スターリンが死亡し、フルシチョフによるスターリン批判が始まると、1956年には
民主化の動きからハンガリー動乱が発生し、世界を揺るがす事態となった。
<現状> 国名:ハンガリー(第三共和国) 、人口:980万人 国土面積:日本の1/4

以下、関連記事を紹介します。

世界・歴史遺産を訪ねて  9.ハンガリー(ブダペスト)  登録: 21.4.24 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d6746d2fbd4882a7cdf5963f051f4e9b 

<参考> 次の国は、10.ギリシャ https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/20a6b5006c7943c7bcaa74e5f868f1d1


世界・歴史遺産を訪ねて  9.ブダペスト(ハンガリー)

2021-04-24 12:25:36 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 中欧の旅で最後に訪ねたのはハンガリーである。ハンガリーは(首都ブダペストも)日本から
は遠くて、なじみの薄い国である。ただ、現在のハンガリーの住人マジャール人という民族は
アジア系で、幼児のお尻には日本人と同じく蒙古斑点があると聞いており、その点親しみを
感じるが、現地で見る顔かたちは西洋人に見える。

 ハンガリーに入ると観光ガイドは、ハンガリーの国名について、5世紀頃にフン族(Hun)が
大移動してきてヨーロッパ(Garia)に建てた国(Hun-Garia)であり、これを英語読みすると
ハンガリーとなり、これが国名ハンガリーの由来であると説明を受け、納得した。
(但し、歴史を調べてみると、なかなかに複雑である。中欧の肥沃な平原に位置するこの国が
昔から重要であったことは理解できた。少し調べて、まとまれば、投稿する)

 ハンガリーの首都、ブダペストはドナウ川の北側の高台のブダ地区(為政者が支配)と、南側の
低い平原のペスト地区(下町)からなり、合わせてブダペストとなっている。 (ブダとは、フン族の
最盛期の王様、アッティラ王(453年没)の兄(ブレダ)の名前に由来するらしい。)
 ドナウ川から見上げるハンガリー王国の王宮は重厚で、威圧感があり、いかにも力強い国で
あった様を伺わせる。
 我々の旅では、王宮周辺、ドナウ川にかかる鎖橋、   等を見学観光した。ドナウ川クルーズ
で見る、宵闇に浮かぶ王宮は、重厚な中にも美しく輝き、なかなかに見応えがあった。

   (お詫び)    R3.5.5
 フン民族の大移動、またハンガリー平原の歴史を調べてみようとしていましたが、思うように調べが
進みませんでした。
 新たにタイトルを「世界歴史遺産を訪ねて 9-2.ハンガリー平原」と題して投稿します。 

<参考>9-2.ハンガリー平原https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/c93b3eff1b2ef4db4468fa4f4d989a27

<参考>10.ギリシャhttps://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/20a6b5006c7943c7bcaa74e5f868f1d1

 

 

 

 


世界・歴史遺産を訪ねて  8.ウィーン (オーストリア)

2021-04-17 19:15:54 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 2014年4月23日、ウィーンにある史跡、街の中心街を見学、観光した。街の名所の
一番はオペラ座と周辺のようだ。時間がないので、オペラは見られなくて外から見る
だけに終わった。目抜き通りにはテラスが並び街を散策する人々や寛ぐ人々で賑わって
いた。

 散策しているとモーツアルト像が現れた。ここは王立庭園だそうだ。少し歩いていると
双頭の鷲(ハプスブルグ家の紋章)を屋根にいただいた風格のある長大な建物が
現れた。これは、王宮(新王宮)で、現在は図書館や博物館として使われているようだ。

 この後、車窓観光を楽しみながら、シェーンブルン宮殿へと向かった。広大な敷地の
中に建てられた宮殿は、ベルサイユ宮殿を思わせる立派な宮殿だったが、残念ながら
写真撮影が禁止で、建物内部や芸術作品の写真が撮れなかったのは残念である。
宮殿の背後にある庭園は遠近画法を思わせる奥行きの深い庭園で、大きな樹木や彫像
がさりげなく配置された雄大な庭園であった。

<参考>シェーンブルン宮殿の庭園は、先にブログ登録をしているので、興味のある方
      は下記を参照下さい。

シェーンブルン宮殿の庭園  登録: 2017.2.26 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/965515bcf76dd22a31cddb5658d5ad88

<参考> 個別写真

     

    

      

     

     

    

    

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<参考> ハプスブルグ家の歴史  (浅学の身ながら、受け売りで記載します)

 12世紀初頭にその名前が使われ始めるが、遠祖は10世紀にスイス北東部のライン川上
流域を発祥の地とする。1273年ハプスブルグ伯爵が推挙されて神聖ローマ帝国・皇帝
ルドルフ1世となり、世に名前が出た。

 1278年ボヘミア王との戦いに勝ち、その所領、オーストリア公国を自国領とした。以降、
軸足をオーストリア地方に移していく。1440年ハプスブルグ家のフリードリヒ3世がローマ王
になって以降、王位の世襲が続いていく。ハプスブルグ家は婚姻関係によって、ブルゴー
ニュ家、ナポリ王国、シチリア王国、スペイン王国、ボヘミア王などの王位を継承し、カール
5世治下ではヨーロッパ一の大帝国を現出させた。1549年にハプスブルグ家はスペイン系
ハプスブルグ家とオーストリア系ハプスブルグ家に分かれる。

 スペイン系ハプスブルグ家は無敵艦隊の壊滅により勢力は下り坂となり、1700年カルロス
2世の死によって断絶する。
 オーストリア系ハプスブルグ家はカール5世の弟、フェルディナンド1世から始まる。1683年
オスマン帝国(トルコ)の第2次ウィーン包囲撃退後、勢力を盛り返し、オスマン帝国を破って
1699年にハンガリーを領地に加えた。

 1740年カール6世が没し、男子がいなかったため、長女マリア・テレジアが相続した。
これを不服とするプロイセンなどにより、オーストリア戦争が起こり苦境に立ったが、イギリスの
支援により、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーを領地として認められた。オーストリアは
フランス王国とも接近して大国としての地位を確保し、ロシア、プロイセンと共にポーランド分割
にも参加した。
 1789年にフランス革命が起きると、ハプスブルグ家にも衝撃がおきた。フランスに出兵するも
革命軍に敗れ、以降、ナポレオンが台頭するなど動乱の時代となる。(マリーテレジアの死後
ハプスブルグ家は男系が絶え、ハプスブルグ・ロートリンゲン家となる。)

 1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したが、ハプスブルグ家はオーストリアの
帝室として存続した。その後、周辺国との戦争で失態が続き、国際的地位が低下した。
さらに、多民族国家における民族自治の気運が高まり、この地でも問題が深刻化した。1867年、
皇帝はハンガリー人に妥協して帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国に二分し、同じ君主
を仰ぐオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)とした。

 1914年、ボスニアにておきたサラエボ事件(皇太子、フェルディナンド大公夫妻がセルビア
人によって暗殺)をきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したことから第一次世界
大戦が始まる。1918年、終戦と共に、ハンガリー、チェッコスロバキアが分離独立し、またカール
1世の亡命により、ハプスブルグ帝国は解体した。

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<参考> 9.ハンガリー(ブタペスト) https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d6746d2fbd4882a7cdf5963f051f4e9b

 


世界・歴史遺産を訪ねて  7.チェコ (&スロバキア)

2021-04-04 15:04:22 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 ここでは、2014年に中欧の旅で回った、中欧諸国を順次取り上げる。この辺りは、歴史的
にはマリーテレジアのオーストリー帝国、またオーストリア・ハンガリー二重帝国が力を奮った
時期があり、興味があった。最初にチェコ共和国を以下に報告する。

 プラハ城と街の見所 /チェコ共和国

 14世紀にボヘミヤ王だったカレル1世が、神聖ローマ帝国のカール4世として即位し、
帝国の首都をプラハに置いたことから、プラハ城の強化、街の充実、繁栄が進んだようだ。
プラハ城は世界遺産に登録されている。お城や大聖堂は歴史を感じさせる渋い色の建物
だが、お城から見るプラハの街並は朱色の屋根が多く、明るさを感じさせてくれる。プラハ城
には、現在、大統領府がおかれ、現役で活用されている。
 プラハの見所は、プラハ城とカレル橋と旧市街、そしてブルタバ(モルダウ)川と思われた。
  (ボヘミア王、カレル1世: 在位:1346年 - 1378年)  
  (神聖ローマ帝国・皇帝、カール4世:在位:1355年 - 1378年)

 

 チェスキークルムロフ城 /チェコ共和国

 チェスキークルムロフ市は中世の街をそのまま残したような美しい町で、お城と良くフィット
している。お城の庭や回りの林には自然の草花が咲き、心を和ませてくれる。お城は特徴の
ある尖塔が聳えて、観光客の目を引きつける。街全体が世界遺産に登録させているようだ。

 参考: チェスキークルムロフのお城や庭園を別の記事として登録しているので、リンク先を
      示す。
      https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/baad048cc1f567f4ed33aa02bb816753


 ブラチスラバ / スロバキア共和国

 1993.1月にチェコスロバキアから分離独立して、現在のスロバキア共和国となった。民族は
スロバキア人(スラブ系)である。ハンガリー王国の支配下にあった時期が長い。人口は約550
万人である。ブラチスラバに立ち寄ったが、落ち着いた静かな佇まいであった。

 

<参考> 8.オーストリア(ウィーン) https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/c22ba4fb2355a3a94169fbe26ad23137


世界・歴史遺産を訪ねて  6.ロシア

2021-03-19 10:30:06 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 ロシアという国は、遠くにあってよくわからない国だという認識だった。多分、冷戦
時代の共産党政権、スターリン配下で行われたシベリア抑留の悲惨な光景、北方
領土の強奪などが脳裏にあり、傲慢な国民性ではないかと思っていた。
 一方、エルミタージュ美術館やロマノフ王朝などの宮廷文化は気高く、何となく憧れ
をもっていた。
 そもそも、よくわからないロシアに出かけようと思ったのは、エルミタージュ美術館を
一度見ておきたいと思ったからだが、深い意味は無かった。十分な知識も無く出かけた
訳けだが、通訳(現地案内人)が良かったせいか、満足できる旅行となった。特に、
一般ロシア人は結構親日的で、親しみを覚えた。

 さて、ここ(この記事)では、これまでの投稿記事を使って、歴史遺産とも言うべき
ロマノフ王朝の建物や庭園を中心に紹介することとしたい。
 最初は、サンクトペテルブルグの冬の宮殿(現、エルミタージュ美術館)を中心とした
エリアで当地の観光スポットである。とにかく雄大な大地(スケールの大きさ)を感じ
させてくれる。

詳細は、下記の投稿をご覧下さい。

ロシア-1    サンクトペテルブルグ 1(冬の宮殿) 2020.9.2投稿https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/c10e37b267a95c63dc3a1391be0bc57e

次に、夏の宮殿(エカテリーナ宮殿)です。

  サンクトペテルブルグ郊外に夏の宮殿(エカテリーナ宮殿)がある。この大広間で、
「ロシアに漂流した日本人、大黒屋光太夫がロシア人ラクスマン伯爵の仲介を得て、
エカテリーナⅡ世に謁見を賜った。」と説明を聞いて、親近感を味わった。

ロシア-2  サンクトペテルブルグ 2(夏の宮殿) 2020.8.20投稿https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d5be65d90d47095db2781bbe7fc2f8b8

最後に、モスクワのクレムリンを投稿します。

 サンクトペテルブルグ訪問の後、モスクワに立ち寄った。時間はあまりなかったが、
一日で、クレムリン界隈を見ることができた。ここでは、ロマノフ王朝が建設した建物の
殆どが現・ロシア政府の建物として現役で活躍しており、感心した。旧・元老院に国旗
が立っている時は、プーチン大統領が在籍しているのだそうである。

ロシア-3  モスクワ  (2020.9.16投稿)
https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/e50901366f8c0b9cfddca49d58b886c5

<参考> 7.チェコ & スロバキア https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/886c29ff5d082de92935cf8924b36f43


世界・歴史遺産を訪ねて   5.スペイン-3

2021-03-10 10:45:00 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

 この日でスペインの旅も最後である。トレドと首都マドリードを見て回ることとなっている。宿泊
するパラドールにも興味がある。
 最初に、マドリードから80Kmほど離れている古都トレドに向かった。トレドは1085年にイスラム
勢力を破ったカスティーリア王国(スペイン)の首都となり、1561年に首都がマドリードに移される
まで、約480年間、首都であり続けた。
 トレドを囲むように流れるタホ川の対岸からトレドの旧市街を眺めると、素晴らしい古都の風景が
眺められた。多分、街全体が世界遺産に登録されていると思う。街の中央には王宮や大聖堂が
聳え立って見える。街には大きな大聖堂があり、首座・大司教がスペイン全体を管轄していた。
街中にはイスラム文化の名残を見ることできる。土産物屋に並ぶ金・銀細工の飾り物には緻密な
アラブの文様が彫刻されている。

 次に、マドリード市に移動し、マヨール広場で昼食を取り、目抜き通りを車窓見学し、ついで、
プラド美術館を見学した。その後、スペイン広場でドンキホーテ像を見ながら休憩し、最後の
見学地スペイン王宮へ出かけた。ここでは、外から王宮の佇まいを眺め、前面の庭を散策した。

 見学を終えると宿舎・パラドールのあるエナーレス(マドリード近郊)へ向かった。ここで、本屋さん
を探しに街へ歩いたが、昔の面影を残した中堅都市だと感じた。宿舎のパラドールは、修道院を
改装した高級な宿舎で、日本の国民宿舎(但し、ずっと高級)のような公営宿舎であった。最後と
いうことで、旅行社がディナーを予定しており、楽しい、思い出に残る夕食となった。


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年表  カスティーリア地方(トレド)とカスティーリア王国(スペイン)

 2,3世紀  ローマ帝国時代、ローマの属領
 5世紀初   フン族の圧迫により、ゴート族が西に移動、イベリア半島進出
        (418年   西ゴート王国建国(首都をトゥールーズ/南フランス))      
 476年   西ローマ帝国終焉。西ゴート王国がイベリア半島を支配
 561年    西ゴート王国、首都をトレドに置く  /ゴート族はゲルマン族の一派
 589年   第3回トレド教会会議にて、キリスト教アリウス派からカトリックに改宗/西ゴート王国
 711年   ウマイヤ朝(アラブ)に征服される
1031年   後ウマイヤ朝、崩壊する。(分裂国が多数となる)
1085年   カスティーリア王国がトレドを奪還(キリスト教国に戻る)
         (王:アルフォンソ6世)
1561年   カスティーリア王(フェリペ2世)が首都をマドリードに移す。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その3  カスティーリア地方 ( トレド、マドリード ) 訪問 2013.4   (ブログ登録 2016.1)https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/cf7686f1452a7b5010cded3b300e0aee

以上で、スペインの歴史遺産を終わります。

<参考> 6.ロシア へ続く https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/f25b811015cba94418a94705b2b6b2c6


世界・歴史遺産を訪ねて   5.スペイン-2

2021-03-06 20:27:19 | 海外・歴史遺産 ー国別ー

その3  アンダルシア地方 (グラナダ、セビリア、コルドバ、他)

 グラナダは、先に記載したので、ここではアンダルシア地方のセビリア、コルドバを中心に歴史
遺産の記事を書きたい。
 セビリアは現在人口70万人を擁するスペイン第4の都市である。コロンブスが新大陸探索に出発
したのは、このセビリアの港からであり、大航海時代の新大陸攻略の船団もこの港からであった。
その時代にも、セビリアは既にこの地方の中心都市であった。日本との関わりでは、伊達政宗の派遣
した支倉常長はセビリアに上陸し、スペイン王の仲介を得て、ローマへ向かった。( セビリア港は、海から川を遡ること80kmの地点にある)
 セビリアでは、闘牛、フラメンコが盛んだが、元気な船乗り達が闘牛や踊りや酒を楽しんだという
ことも想像される。また、キリスト教の遺産も沢山残っている。カテドラル(大聖堂)はスペインで最大の
面積を有し、尖塔(ヒラルダの塔)は天を突く。これと並ぶアルカサル(王城)も圧巻である。ヒラルダの
塔に登ると街の全景を見渡すことができ、港に停泊する大型客船を見ることができた。
 また、夜の街では食事をしながら、フラメンコの見物ができ楽しい一時を味わえた。
 途中、白い街ミハスと城塞都市(絶壁に囲まれた)ロンダを観光したので、写真を付加した。

 次に、コルドバに向かった。8世紀にイベリア半島に進出したアラブ人は瞬く間に半島をほぼ制圧
し、アラブ人の国(後ウマイア朝)を建て、コルドバを首都として11世紀まで続く。11世紀にイスラム教
のこの国は分裂したが、イスラムの分裂国は15世紀まで半島に残り続ける。コルドバはこのイスラム教
国の中心都市だっただけに、メスキータに見るようなイスラム建築を多数残し、またユダヤ人街に見る
ようなアラブやユダヤとキリスト教文化の融合の様を見せてくれる。
(メスキータとは、スペイン語でモスクのこと。赤白の紅白模様のアーチがアラビア的に感じられる。)
 コルドバを流れる大河(グワダルキビル川)は、グラナダを流れる大河と合流し、セビリアを通り、
地中海にそそぐ。

<参考記事> アンダルシア地方  2013.4  (登録 2016.14)

https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/8a4ae80ce921305b5efa6a024d389258

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