名峰登山と草花

春から秋にかけて、登山と草花探索等を掲載。植物観察、世界歴史遺産巡り、庭園観賞、素人農業にもチャレンジ中。

近江商人の街を巡り、古を偲ぶ  - 2022.11上-

2022-11-09 06:32:52 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

 11月2日に、紅葉探索の延長で、水郷の街、商人を育てた街、近江八幡へ
出かけてきた。
 昔の面影を残す街並は、日牟禮神社(八幡宮)の境内から西に向かって100mほど
の狭い一角だが、布団の西川屋(創業家)が今も健在で営業を続けており、また、向かい
には、JINTANで有名な近江兄弟社があり、嘗て、数多の近江商人を輩出した昔を思い
起こさせる街だ。

 昼食は、神社の境内にある「たねや」日牟禮舎で、精進料理のような風流な食事をいた
だいた。次いで、「たねや」と洋菓子店(ハリエ日牟禮館)で土産を買った。

 近江八幡は豊臣方との関係が深いと感じた。眼前に聳える山の山頂には、嘗て豊臣
秀次の居城があり、関東(徳川方)に対する防衛の意味があったようだ。現在はロープウェー
があり、容易に登ることができる。

 この後、日牟禮神社の入口から延びる掘割り(「八まん掘」の名前が付けられている)を
お堀沿いにゆっくり散策した。掘り脇から抜けて表通りに出ると、昔の街並が目を引き
つける。西川屋さんのお蔵には、歴史資料が展示されており、興味を持った。表通りを
一巡した後、商人の街・近江八幡の見学を終えて、帰路についた。

 帰路の途中に、木村古墳群の一角(天乞山古墳、久保田山古墳)に立ち寄った。


英雄、ファンボイチャウ  - 常林寺と浅羽佐喜太郎 -

2020-08-06 17:07:15 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

 ベトナムには2回観光に出かけた。初回は2008年にハノイとその周辺、2回目は一昨年
(2018.1)に旧サイゴン(現ホーチミン市)に出かけた。中部のフエにも行きたかったが、余裕と
日程の都合がつかなかった。
 ベトナム旅行(旧サイゴン)を計画している時、図書館で「日本を目指した英雄と皇子」という
ベトナム独立をめざすファンボイチャウの本を手にした。日本に学び、日本の明治維新を
意識して?、多くの若者を日本に遊学させ、フランスからの独立運動を続けたが、フランス政府
の妨害により、日本からの強制退去を日本政府から命じられる。
 日本では、静岡県袋井市の篤志家・浅羽佐喜太郎医師(当時小田原で開業)の支援を受けて
独立活動を続けることができたようである。日本を退去した後は、ベトナム、広東で活動を続け
た。ベトナムで仏政府から捕縛され、終身刑で投獄されたようである。1940年に独立を待たず
他界した。大戦後、ソビエト共産党の支援を受けたホーチミンが独立活動を続け、ベトミン軍を
指揮し、9年間の活動の後に、1954年5月ディエンビエンフーの戦いで仏軍要塞を撃破して
独立を勝ち取った。

 前置きが長くて恐縮だが、ファンボイチャウの支援者だった浅羽佐喜太郎・医師が早くに
他界したことを知ったファンボイチャウは佐喜太郎の出身地(袋井市・常林寺)に感謝を込めて
記念碑を建てた。(浅羽佐喜太郎とは、どんな方だったか?)
 これが、常林寺を訪ねた理由だ。どんなお寺さんだろう。何が記念碑に書かれているのだろう
か?
 もう一つ、平成29年3月、ベトナム政府の招請を受けて平成天皇がベトナムを訪問された。
この時、3月4日に中部のフエ(ベトナム阮朝首都)に立ち寄り、ファンボイチャウ記念館を訪ねた。
さらに、帰国後に、私的旅行で袋井市の常林寺を訪ね、浅羽佐喜太郎・記念碑をお参りされた。
  上皇様はベトナムと日本の架け橋を担ったファンボイチャウと篤志家、浅羽佐喜太郎に思いを
馳せたのだろうか?

 

 常林寺は遠州東部、天竜川と牧ノ原台地の間の唯々平らな畑、田圃の中にひっそりと陣取って
いた。特に、立派な建物があるわけではなかったが、郷土の尊敬すべき偉人を知り、その記念碑に
お参りして、懐の深い先達の志と行動に感銘を受けた。

<参考> 以下、クリックすると拡大します。

  

以上です。

 


古代・越中の国を訪ねて

2017-02-12 17:36:09 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

  今年は万葉集によく出てくる大伴家持の生誕1300年だそうだ。家持(29歳)は
新進気鋭の青年貴族として越中の国に国主として奈良の都から赴任し、5年間を国府(
現在の富山県高岡市伏木周辺)に滞在して勤めを果たし、34歳にて都に復帰された。
現在の高岡市伏木には越中の国庁跡、国分寺跡、家持の住まい跡、などの史跡が残り、
不明確な部分の調査が進んでいる。
 家持は5年の越中赴任の間に数多くの歌を詠み、各地の石碑に刻まれて残されている。
私は文学音痴ではあるが、伏木にある万葉歴史館にてガイドの講釈を聞き、紹介映画を
見せていただいて、随分と学習できた気がする。奈良時代の越中の国は現在の富山県と
能登半島を合わせたエリアで、加賀国は当時はなく、石川県は越前と越中に含まれていた
そうである。
 今回は古代・越中の史跡を訪ね、歌詠み家持が歌を詠んだ現地に石碑を訪ねた。雨晴
(アマハラシ)海岸からは海越しに雄大な立山連峰を見渡せるはずであったが、上半分が
雲に隠れていたのは残念であった。一通りの散策の後、氷見に出かけ、番屋でグルメを
楽しみ土産を買い込んで帰宅の途についた。東海北陸道が貫通して、高速バスが名古屋~
高岡間を便利に繋いでくれ、3、4時間で快適に直行できるようになってうれしい限りだ。

 

大伴家持(おおとものやかもち)略歴

    養老2年(718)に生まれた、奈良時代の貴族で歌人である。大伴氏は
   大和朝廷以来の武門の家柄で祖父安麻呂、父旅人とともに律令制度下の高級官吏
   として活躍した。天平18年(746)に越中の守となった家持は越中の自然と
   風土の素晴らしさを223首の歌に残した。朝廷では越中復帰後、兵部小輔、
   因幡の守、薩摩の守、参議、陸奥鎮守将軍などを歴任した。また、万葉集編纂の
   中心的な役割を果たし、延暦年間(783)には従三位中納言にまで昇進した。
   785年暗殺事件に巻込まれ、罪を被る中、没する。806年罪を解かれ復位。

 

万葉集(全20巻:4500余首)  大伴家持:473首(越中にて223首を詠む)

大伴家持の歌(目についたもの7首)
     もののふの 八十をとめらが 汲み乱ふ(くみまがう)
           寺井の上の 堅香子の花(かたかごのはな) 堅香子:カタクリ

     立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし
 
     磯の上の 都萬麻(つまま)を見れば 根を廷(は)えて 
                         年深からし 神さびにけり

     妹に逢はず 久しくなりぬ 𩜙石川(にぎしがは)
             清き瀬ごとに 水占廷へてな(みなうらはへてな)


     春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ) 

     馬並めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の 
                    清き磯廻(いそま)に 寄する波見に

            朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌う船人 
                                     以上

以下、個別の写真を掲載します。

    

     

    

     

      

     

      

      

    

      

     

     

     

     

個別写真、終わり。

 

 


豊田佐吉翁 -生誕150年-

2016-07-06 19:35:33 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

 郷里の発明家に豊田佐吉翁がいる。今年は生誕150年と市役所に垂れ幕が掲げられ
ていた。生家は実家から車で5分位のところだ。
 鷲津中学(湖西市)の正門には佐吉翁の胸像があって、私が学生だった頃は、登校時
には頭を下げて登校した。地元にいたころは生家を見学に行ったこともなかった。現在、
生家は豊田佐吉記念館として整備されている。世界のトヨタの基礎を作った元祖なのだ
から当然だ。むしろ、控えめな感じがする。
 7月3日に実家に出かけた折、時間があったので久しぶりに記念館に立ち寄った。
 いつも玄関だけ見て素通りしていたが、駐車場に車を止め、屋敷内を散策した。
母屋と生家、集会所等があり、裏山には浜名湖や富士山の見える展望台があった。
多分、この辺りでは資産家だったのではないかと伺われる。
 私は40歳くらいの時、小説 トヨタ王国(邦光史郎著)を読み、豊田佐吉の人生、
自動車開発を手掛けた長男喜一郎、佐吉の弟(平吉)とその子供達(英二、達郎)等の
豊田一族の苦闘の様を知って感銘を受けた。生家には孫の章一郎氏が子供の頃には夏休み
には遊びに来ていたそうで、近くに住んでいた義叔父は遊んだことがあると話していた。

以上。


大黒屋光太夫のこと - ロシア滞在10年 -

2015-09-02 16:18:54 | 歴史と史跡を訪ねる(日本)

 4月にサンクトペテルブルグへ観光(ロマノフ王朝の歴史遺産を巡る)に出かけた
折、エカテリーナ宮殿の謁見の間で、日本人「大黒屋光太夫」が1791年5月に
エカテリーナⅡ世(女帝)に拝謁し、帰国を嘆願したことを知った。
 旅行から帰って、井上靖の「おろしや国酔夢譚」、吉村昭の「大黒屋光太夫」上下
を読んで、苦難の行程を把握した。
 津市に出かける用事があったので、帰りに鈴鹿市若松町(光太夫の出身地)にある
大黒屋光太夫の記念館を訪ね、当時の記録資料を見学した。また、若松町にある他の
史跡を探索した。
 大黒屋光太夫は回船問屋の荷物を江戸に運ぶため、1782年12月に白子の港を
出航し、遠州灘にて難破してベーリング海のアムチトカ島まで流され、ロシアに抑留され
た。帰国を許されたが、乗組員17は病死などで人数を減らし、1793年に日本の
地を踏んだのは3人のみとなった。一人(小市)は帰国直後に病死し、残る2名(
光太夫と磯吉)は日本で命を全うした。
 当時、日本は鎖国のため、習得したロシアの文化技術、ロシア語能力は幕府によって
封印され、日本に活用されなかったことは残念であった。






以下、個別写真を掲載します。

 

 関連ブログ: ロマノフ王朝の歴史遺産を巡るhttps://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/190b559fd17c032b5eea001ddabd7355