2014年4月23日、ウィーンにある史跡、街の中心街を見学、観光した。街の名所の
一番はオペラ座と周辺のようだ。時間がないので、オペラは見られなくて外から見る
だけに終わった。目抜き通りにはテラスが並び街を散策する人々や寛ぐ人々で賑わって
いた。
散策しているとモーツアルト像が現れた。ここは王立庭園だそうだ。少し歩いていると
双頭の鷲(ハプスブルグ家の紋章)を屋根にいただいた風格のある長大な建物が
現れた。これは、王宮(新王宮)で、現在は図書館や博物館として使われているようだ。
この後、車窓観光を楽しみながら、シェーンブルン宮殿へと向かった。広大な敷地の
中に建てられた宮殿は、ベルサイユ宮殿を思わせる立派な宮殿だったが、残念ながら
写真撮影が禁止で、建物内部や芸術作品の写真が撮れなかったのは残念である。
宮殿の背後にある庭園は遠近画法を思わせる奥行きの深い庭園で、大きな樹木や彫像
がさりげなく配置された雄大な庭園であった。
<参考>シェーンブルン宮殿の庭園は、先にブログ登録をしているので、興味のある方
は下記を参照下さい。
シェーンブルン宮殿の庭園 登録: 2017.2.26 https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/965515bcf76dd22a31cddb5658d5ad88
<参考> 個別写真
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<参考> ハプスブルグ家の歴史 (浅学の身ながら、受け売りで記載します)
12世紀初頭にその名前が使われ始めるが、遠祖は10世紀にスイス北東部のライン川上
流域を発祥の地とする。1273年ハプスブルグ伯爵が推挙されて神聖ローマ帝国・皇帝
ルドルフ1世となり、世に名前が出た。
1278年ボヘミア王との戦いに勝ち、その所領、オーストリア公国を自国領とした。以降、
軸足をオーストリア地方に移していく。1440年ハプスブルグ家のフリードリヒ3世がローマ王
になって以降、王位の世襲が続いていく。ハプスブルグ家は婚姻関係によって、ブルゴー
ニュ家、ナポリ王国、シチリア王国、スペイン王国、ボヘミア王などの王位を継承し、カール
5世治下ではヨーロッパ一の大帝国を現出させた。1549年にハプスブルグ家はスペイン系
ハプスブルグ家とオーストリア系ハプスブルグ家に分かれる。
スペイン系ハプスブルグ家は無敵艦隊の壊滅により勢力は下り坂となり、1700年カルロス
2世の死によって断絶する。
オーストリア系ハプスブルグ家はカール5世の弟、フェルディナンド1世から始まる。1683年
オスマン帝国(トルコ)の第2次ウィーン包囲撃退後、勢力を盛り返し、オスマン帝国を破って
1699年にハンガリーを領地に加えた。
1740年カール6世が没し、男子がいなかったため、長女マリア・テレジアが相続した。
これを不服とするプロイセンなどにより、オーストリア戦争が起こり苦境に立ったが、イギリスの
支援により、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーを領地として認められた。オーストリアは
フランス王国とも接近して大国としての地位を確保し、ロシア、プロイセンと共にポーランド分割
にも参加した。
1789年にフランス革命が起きると、ハプスブルグ家にも衝撃がおきた。フランスに出兵するも
革命軍に敗れ、以降、ナポレオンが台頭するなど動乱の時代となる。(マリーテレジアの死後
ハプスブルグ家は男系が絶え、ハプスブルグ・ロートリンゲン家となる。)
1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したが、ハプスブルグ家はオーストリアの
帝室として存続した。その後、周辺国との戦争で失態が続き、国際的地位が低下した。
さらに、多民族国家における民族自治の気運が高まり、この地でも問題が深刻化した。1867年、
皇帝はハンガリー人に妥協して帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国に二分し、同じ君主
を仰ぐオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)とした。
1914年、ボスニアにておきたサラエボ事件(皇太子、フェルディナンド大公夫妻がセルビア
人によって暗殺)をきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したことから第一次世界
大戦が始まる。1918年、終戦と共に、ハンガリー、チェッコスロバキアが分離独立し、またカール
1世の亡命により、ハプスブルグ帝国は解体した。
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<参考> 9.ハンガリー(ブタペスト) https://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/d6746d2fbd4882a7cdf5963f051f4e9b