普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

私の経験からみた成果主義

2008-07-28 07:25:39 | 企業経営

 バブル崩壊から中国の台頭への競争力強化の一貫として今までの年功序列主義から成果主義を取り入れた会社が増えてきた。
 しかしこれも必ずしも万能でなくて、社内のコミュニケーション不足、モラルの低下などの現象から早くも見直しの動きもあるそうだ。

 今日は私の経験から成果主義評価の意味することを考えて見ることにした。

[困った社員だった私]
 私は設備管理担当の技術者としてある大企業に入社した。
 会社勤めを続ける内に、若かった私は始めて、私が超の名が付くほどの典型的なB型の性格で、一つのことに集中する(学校では明らかに美徳だった)がポカも時々あること、独りよがりで周りのことの気配りから足りないこと、他人や私自身の勤務成績などに無関心なことに気づいた。
 特に最後に書いたことは、後になって考えると成績の査定で従業員のやる気を出させる会社のやり方にまったく沿わない困った社員だった。

 日中は暇さえあれば現場に出て、工員達とだべりながらその仕事ぶりを見物する。
 設備管理に特に必要な充分な目配りが足りないために時々仕事でポカをする。
 退社時刻になると、特に仕事がなければ、同僚達が残業して働いているのを尻目に、 早々に退社して夜学の工業専門学校(今の大学)へ行ったり、新制の大学に英語を勉強に行く。
 おまけに年に数回は趣味の山登りで何日も休暇を取る。
 それで事務所内の評判はさっぱり。
 昇給も最低だったと思うがそんなことには全く無関心。

[新設の工場へ転勤]
 そんな成績の悪い私にも、年功序列制のお蔭でにも新設工場への転勤に伴う係長昇任のチャンスがやってきた。
 私の担当現場のスタッフだったBさんも、私と同じ保全課に係長として配属されてきたが、同年配で途中入社だった彼と同時昇任したことを考えると、私の評価は最低だったのだろう。

・A課長の英断
 赴任先は企業の生き残りを賭けての超大型の新設工場だった。
 私の上司のA課長は、当時の同規模の会社にしては最低人員の保全課の設立、そのスタッフも場所でやっかい者扱いにされていた技術者(私ものその一員)を引き受け、当時削減の方向にあった工員の古手をスタッフとして登用するなどの思い切った方針を建て実行してきた。
 A課長は建設工事中は全てのスタッフを建設部門に派遣し、同部門との協力関係を強化した。

・工事基準作成
 第一期の工場は新規の立地で土地の実情が掴めなかったことと、会社としては始めてのエンジニアリング会社の使用でスタートの開始からトラブル続出だった。
 工場の運転開始後、建設、保全の合同による工事基準作成が行われた。
 これはA課長の英断で建設時に関係部門に保全スタッフを投入し、とかくぎくしゃくしがちな両者の関係改善をしたのが実を結んだのだ。
 保全課から何人かの関係者が出たが、この種の仕事が好きな私が自然に中心となった。
 私にとって幸いだったのは前場所から除け者扱いにされてきた優秀なCさんの協力があったことだった。
 建設部門のD課長もAさんと同様に太っ腹の人で保全の人達の細かい申し入れを殆ど受け入れてくれた。
 私たちは建設、設備管理のための工事基準だけでなく、将来の保全活動に必要なものは全て工場規則に入れて貰った。
 第二期、第三期の工事は前期の工事のトラブル解決のノウハウを折り込んだ基準と工場規則のおかげで前回と見違えるほどトラブルは激減した。

・保全制度の確立
 保全関係で言えば、新設の工場では企業としては最初のコンピューターの導入による全く新しい管理方式を考えていた。
 私とCさんを中心した保全課のスタッフは導入担当の経理課の人達ととあわや喧嘩かと思われるほどの激論の末、予備品管理、保全管理の多くの部門で当時としては最新鋭の管理方式を設立した。(*注1)
 超気弱な私がこれまで出来たのは、A課長が後ろでどっしりと控えていてくれたからだ。

・管理者失格の私
 しかし気配りが苦手の私は課内に大きな波紋をもたらした、先輩係長を無視して自分勝手に仕事を進めているいると言う批判だ。
 それと前後して私の目配り不足のため、職人気質の工員から転身したスタッフの部下が苛められ退職という問題が発生した。
 一方、同僚のB係長はその派手な言動と気配りで課内の若い人達(私の部下を含む)の人心を掴んでいた。
 当然、評価はBさんの方が管理者としては落第の私より上だっただろう。

 私は管理者としては、設備改善を指導した二名の部下に工場長賞を取らせた。
 その部下達の担当現場の課長や、保全制度運営の円滑化を図るために、コンピュター導入で喧嘩をした経理の課長も私をある程度褒めてくれたが、それが工場としての私の評価に繋がらないのは当然だった。

新工場立ち上で活躍した人の処遇
 なお私の上司のA課長は当時としては最新鋭の設備管理方式を確立した業績にも関わらず派手な下請け業者との交際が災いして(彼の奥さんの言によれば)不遇なままに早死にした。
 新設の大工場の建設の大きな業績を上げた太っ腹のD課長は、本社とのコミュニケーションが悪いとの理由で、旧帝大卒にも関わらず子会社の常務取締役で終わった。
 そして私を支えてくれた優秀なCさんは中途退社してエンジニアリング会社に入った。

[海外出張の経験]
 ・南米出張

  そんな管理職としては落第生の私に新しいチャンスが来た。
 南米で建設したプラントがスタートからのトラブルど動かないのと言うので、同設備の保全に詳しくて英語の出来る私が選ばれたのだ。
 そこではプラントの設備で最初に動かす筈の送風機が故障のため、それ以降の機器の試運転さえできないまま約1ケ月以上放って置かれたままだった。
 プラントの建設を請け負った日本の会社、その機器を納入した現地の会社の人もそのトラブルの解決が出来ないと言うのだ。
 私は到着後、片言の英語で現地の工員を使って機械を総分解し、羽根のバランスを取り、再び組み直し、弱かったケースを補強した。
  結果は幸いにも一回の試運転で成功し、私が到着後2日でプラントがスタートした。
 そんな工事の指導が出来たのは、私の若かったころ工員の人達とだべりながらの彼らの仕事を見よう見まねで覚えていたからだ。
  そして現地の人達となんとかコミュニケーションが出来たのは、人から白い眼でみられながら、夜学で英語を勉強したお蔭だ。

  工場のスタート後、独り残ったお人好しでお節介な私は、新しい工場で保全制度を作り上げた経験を活かして、本務以外の現地の保全のやり方の改善を現地課長に提案し、現地の会社幹部の人達からの要望で、保全の眼からみた次期プラントの機械選定の注意事項を話した。
  帰国後、出張先の会社の社長から私の会社の社長宛で私の派遣に感謝する旨の感謝状が来て、この種の出張先からの感謝状は会社では始めてのこととして、本社中の評判になった。(*注2)

・自分の作った規則で始末書提出
 しかしポカの多い私らしく、良い事は続かずに、退職後下請け会社に移ったA課長から引っ張られて、同会社に出向が決まったが、その出向直前と言うのに私の担当範囲の工場で下請け会社がボヤ騒ぎを起こし、私は自分の作った工場規則違反で、私としては始めてで最後の始末書を書かされる羽目になった。

・中東出張と最終評価
 出向先からまた私の元の会社が建設した中東の工場のメンテナンスに派遣されたが、南米の例と同じく、出向先の工員を指導して数々の現場のスタート・トラブルを全て解決した。
 勿論のその助けとなったのは、若いころの現場経験、勉強した英語と新設工場で作った技術標準だった。(*注3)

 そして私の最終的な評価は、海外業務を主管する本社で行われ、旧中卒としては最高評価の部長待遇で退社することになった。
  
詰まり私にとっては幸運にも、延べで僅か約二年間の海外の業績が約40年以上勤めた会社での最終評価になったのだ。

[成果主義について]
 欠点だらけ、毀誉褒貶の多い私の経験から言えば成果主義とか従業員の評価は
・見方や立場によって、評価する人によって、同じ時期の同じ人でも評価が異なるので正しい評価は非常に難しいこと、そして評価者はその事実を良く認識しておくこと
・評価は長い眼でみた、またその人の将来を考えた上での評価も大切なこと
 (私と同じころ夜学に通っていた多くの優秀でやる気のある人が卒業後退社した)
・成功例は大いに取り上げるべきだか、一時的な失敗を見ただけの評価では、特に今の時期の若い人たちには、退社等の大きな影響を与えるかもしれないこと
・会社と言うチームにとっては、地道な仕事をする人が腐らないようそれなりの評価をすること
・管理者の評価は本人自身の評価やその部下の問題行動などの評価は良くあるが、その部下の能力の伸びについても適切な評価をすること
 
成果主義では上司も評価の対象になるので、上司独りが光輝いて出世街道を走る一方、自分の業績を横取りされた部下が腐ってしまうことが起こり安い。
・そして最終的には仮に成果主義を取っても、私の持論である、伝統的なチームワークや家族主義的経営感覚を忘れないことなど慎重に行うことが望ましいと思う。

 なお私の出身会社の本社で見聞きしたことや、成果主義の会社の勤務の経験なども書かねばならぬところだが、余りにも長くなりすぎるので省略するので、もしご興味のある方は成果主義の導入について を見て頂きたい。

このブログを、より多くの人にも見て貰いたいと思っています。どうぞご協力をお願い致します。↓
人気ブログランキングへ
政治ブログへ

*注1:経理課と論争になった一番の問題はコード化の問題だった。
今でも多く使われているが、予備品などを2367632と表記すると言う経理の提案を、これではそれを調べるための特別の字引がいるが、それでは少数の保全人員で処理出来ないといって、12C10002(12は工場番号、C100は機械の名称、02は部品の番号)主張して遂に押し切った。
そして標準にも機械名称の付け方を入れた。
 退社後、私の出身の工場が保全活動の優秀な工場に送られるPM賞を受賞した。
  そして私たちが作った、コンピューター利用の保全制度や各種の標準が受賞の大きな要因となった。

*注2:派遣中に圧縮機で小さなトラブルが発生したが、それは日本で同じメーカーの機械で同じ現象から最後にはの思い掛けない部分の破壊大事故を起こした経験から、圧縮機の現象→結果→対策のノウハウを標準に入れていたのを思い出して、未然に大事故を防ぐことが出来た。
 もしこの事故が南米で起これば優に半年のプラント停止になるところだった。
 私はそれを保全担当の当然の仕事として、本社にも報告しなかったが(当然私の評価には繋がらなかった)、それが南米における最大の業績だったと思っている。

*注3:
・断って置くが、私が若いころ現場に出て工員たちとだべりながら彼らの仕事をみたのは、単なる暇つぶしで現場に出たり彼らと話するのが好きだったからであり、学校に行ったのも、若いころの有り余るエネルギー発散の場所として普通の人はアフター・ファイブを楽しむ代わりに学校を選んだだけの理由で、将来のことを考えてしたことではない。
 もしそれを計画的にする資質があれば今のように凡人で終わらなかったかも知れない。
・中東出張中に日本の親会社から来ている保全スタッフが原因不明の理由で私の部下を突然殴打する事件があった。
 これも後になって気がついたのだが、親会社からの派遣チームの長が、南米でも一緒だった人と言うこともあり、彼がチームの責任者である保全担当者を経由せずに、親しさのあまり私に直接依頼し、私も何も考えずに仕事をして来たのに、彼の不満が爆発したのだろう。
 しかし、上司へは勿論、彼に対しては先輩に当たる私に当たることが出来ないので、私の部下に当たったと考えれば良く判る。
 またしても私の気配り不足がこの事件を起こしたのかも知れない。