普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

裁判員制度と後期高齢者医療制度

2008-07-31 16:55:09 | 政策、社会情勢

 4~5日前の読売新聞で、福田さんが裁判員制度のPRが行き渡っていないが、後期高齢者医療制度のように実施寸前になって問題になるかも知れないので、裁判員制度について、もっと国民に周知徹底するように指示したとの報道があった。

 この両者には共通点がある。
 その制度の表向きの目的の他に、制度を決めたもう一つ目的が国民に知らされていないことだ。
・後期高齢者医療制度
 後期高齢者医療制度の表向きの理由として、75歳以上の高齢者老人医療の充実を謳っていたが、そのもう一つの目的が高齢者の医療費の削減だったことが、直前になって国民の前に曝け出された。
 これに医師の数や、病院のベット数の削減、これで病院を出さた人を吸収する筈の介護関係の経費削減などが、そのもう一つの政府の言わない目的を証明する証拠となり、予定外だった一部老人の保険料負担の増加、年金天引き問題などが絡んで、問題が大きくなったのだ。
 しかし、この制度にはかかりつけ医など一考に値する制度もあり、膨大な国の債務残高削減のための経費節減と言うもっともな理由があった。

・裁判員制度
 しかし裁判員制度は後期高齢者医療制度以上に表向きの目的と制度制定の目的が全く違ったいる酷い制度だ。
 裁判員制度の目的は、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。(Wikipedia
より)
 しかし、その制度を推進した人達の目的は明らかの違う。
 死刑制度に反対する公明党の同制度の提唱を、与党を組む自民党が受け入れ、光市母子殺人事件で一躍有名になった安田好弘弁護士などを中心とする死刑廃止論を唱える弁護士会が協力してあれよあれよと言う間に決まったものだ。

 その彼ら目的はその制度に明らかに現れている。
・対象事件は、死刑又は無期の懲役・禁錮に当たる罪に関する事件
・裁判員は量刑(被告人に下すべき宣告刑を決定する作業)にも参加する

  これは日本で良く知られている米国の陪審員制度の常識で判断出来る一般国民に有罪か無罪かの判断を求める」ものと明らかに違っている。

責任が重過ぎる裁判員
 詰まり、この制度の提唱者は、裁判は全く素人の一般国民を死刑または無期になる可能性のある裁判に参加させ、死刑か無期の判断をさせようとしているのだ。
 だから、裁判員は全く無経験でしかも、これと言った尺度もないまま、或いは本職の裁判官の指導のもとに、(市民が持つ日常感覚や常識)では処理しきれないでない専門的知識を必要とし、どの程度の犯罪が死刑に相当し、あるいは無期に相当するか判断しなければならない。
 本職の裁判官でも被告に死刑を宣告するのに、正義と人情のバランスと言う心の中の葛藤を必要とする。
 彼から死刑宣告をした夜、一仕事終わった乾杯のビールで夕食を楽しむようになるまでには、余程の経験を積まなくてはならない。
 人によってはその判決がいつまでも心の重荷になっている人もいるだろう。
  まして素人で、その裁判限りで開放される、裁判員はその責任の重大さを知れば知るほど、つい死刑宣告回避に廻るだろう。
  これが裁判員制度の提唱者の本音
であることはほぼ間違いないことだ。

  詰まり彼らはこの様な重大を決定を素人の一般国民にさせようとしているのだ。
 裁判員は仮に死刑宣告を回避しても、世の中の世論調査にあるように、大多数の人は死刑存続賛成だし、その反対を唱える一部テレビ局でさえ、凶悪事件ではその被害者の家族を登場させて、裁判では極刑を望むと言わせている。
  それを見た時の死刑宣告を回避した裁判員の気持ちは容易に想像できることだ。
  一生に一度の裁判で、死刑宣告した裁判員もそれを回避した人も、自分の判決をした重みを一生抱えて生きて居なければならない。
  そしてそのいずれの裁判員も守秘義務の枠に縛られて、その苦しい思いのたけを他人に話すことさえできないのだ。

民事関係の裁判に裁判員の参加
 裁判員制度の目的は、「国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図る」ことが目的とされている。
  今までの大きな刑事事件で余程のことで無い限り、誤審やとんでもない判決がされた例は皆無に近い。
 それに対して民事訴訟では呆れるような判決や、後日まで問題を残す判決は後をたたない。
 最近の例では諫早の干潟の開門判決、数々の原発訴訟、沖縄自決訴訟など数え切れない程だ。
 これこそ「市民が持つ日常感覚や常識を活かした裁判への参加」の効果は大きいのに一般国民が参加できないのだ。

 裁判員制度についてあれだけの啓蒙活動をやってなお浸透しないのは、一般国民が最初は米国の陪審員制度のように気楽に考えていたのが、その制度の目的の胡散臭さや、裁判員の責任の重さ感じ始めているからだと思う。

 裁判員制度は国会を通過しもう止めることは出来ないようだ。
 然し同制度は、福田さんが心配するように、実施が間近になってその批判が高まる可能性が高い。
 何故なら裁判員制度の政府の説明しない通りそうにもない死刑制度廃止制度の代わりに素人の一般国民を引き込んで、実質的に死刑判決を無くそうとする意図が明らかになり、裁判員になった人達にとんでもない重圧を掛けることがいよいよはっきりして来るからだ。
 そして野党もマスコミもいざ実施と言うときになって、裁判員制度の真実の目的を暴こうとするのは後期高齢者医療制度の例から考えてもほぼ間違い筈だ。
 政府や与党も、野党も、制度実施の直前になって混乱しないように今更引っ込みの就かない折角の裁判員制度を利用して民事関係の裁判への参加に大きく舵を取ることを今の内に考えた方が良いと思う。

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参照:
   
これで良いのか裁判員制度