昭和28年、高校生になった私は相変わらず貧乏だった。終戦直後に父を病気で亡くして食うや食わずの日々が続いていた時に、東北大学生課のあっせんで家の二階に学生さんたち4、5人を下宿させ、即席の下宿屋として何とかその日暮らしからは抜け出したものの、姉は仙台一女高、勉強嫌いの私は仙台二女高へ進んだことで、学費がかさんでいた。
続けていた書道も、放課後の部活動での紙代が払えず、好きな本や映画の切符代を母親にねだることもできなかった私は、休日に仙台一高近くの甘味処で女給のアルバイトを始めた。
甘味処と言えば聞こえはいいが、戦前からの古ぼけた小さな店で、一高生相手に夏はかき氷とあんみつ、冬はたい焼きなどを売っていた。
そんな店だったけれども、私より先にアルバイトの女の子が一人いた。
店主の中年女性は他に何やら怪しげな商売をしているらしく、ほとんど店にいなかったから。
その若山さんは私と同じ二女の二年先輩で、ただし彼女は夜間だったが。
東京から疎開してまもなくこちらで母親と兄を亡くし、そのためか美人なのに笑顔が少なく無口で、彼女目当てに店に来る一高生たちからはこっそり「石仏」とあだ名をつけられていた。
若山さんは外国映画が好きで、私もそうだとわかると何度か映画館へ連れて行ってもらった。とはいえ、同じ貧乏同士、切符代やそのあとのお茶代はきっちり割り勘にした。
それがある日を境に、若山さんはアルバイトに出勤して来なくなった。
店主が言うには、仙台公演に訪れた長谷川一夫にのぼせ、学校も中退して一座について行ってしまったのだそうだった。
私は心の中で、やるな、若山さん!と快哉を叫んだ。
さらにそれから何年かして、デパートガールになっていた私は若山さんが女優になったことを知った。なんでも、PTAが上映に大反対したことで逆に話題になってしまったエロ映画に出ているという。
私は頭からスカーフを目深にかぶってその映画を観に行った。
若山さんは見事な脱ぎっぷりだった。
私は胸の中でまた思った、やるじゃん、若山さん!と。
若山ひろ子役は秋吉久美子(1979年)
終戦の年(昭和20年)、小学3年生の冬に私は父親を病気で亡くした。
仙台空襲の翌日に私たち親子は着のみ着のままで天蓋のない列車にしがみつき、長時間揺られてたどり着いた父親の故郷の田舎町で疎開生活を送っていたのだが、気の強かった母は夫が亡くなると間もなく、私たち姉妹を連れて、焼け残った仙台の家へ戻った。
それからの暮らしは本当に苦しいものだった。
東北大の学生課の依頼で、当時珍しかった二階がある我が家へ地方出身の学生さんたちを受け入れて思いがけず下宿屋を始めるまでは、それこそ、その日の食べ物にもこと欠くような生活だった。
元々体が弱かった私はビタミン不足で口中いっぱいに口内炎ができ、話をするのも苦痛で、さらには熱が出て寝込んでしまった。
翌朝、母は私を起こすと二つ先のバス停にあった医院へ連れて行った。
子どもの私から見ても、身だしなみの良い医師だった。
私を診察した彼は少し考え込むと、ビタミン剤を出しておくので必ず飲ませるように、と母へ申し付けた。
ハイ、と母はうなづくと、父の形見の腕時計を懐から取り出し、今はお代が払えないのですが、これをカタに待っていただけませんか、と喉から声を絞り出すようにして言った。
いいですよ、と医師は即答し、机の前に並んでいた厚い医学書を一冊差し出した。
お母さん、これを東北大の正門前にあるTという古書店へ売りなさい。
そのお金でこのお嬢さんに滋養のあるものを食べさせなさい。
玄関を出ると、母はつないでいた私の手を痛いくらいきつく握った。
あれは、嬉しかったのか、それとも恥ずかしく、悔しかったのか。
その後、母は99歳まで生き、私も今や米寿を過ぎた。
さまざまなことがあったけれど、今、思い出されるのは、たまたま触れた人の情けだったりするのが、面白いな、と思うのだ。
「仙台空襲は私が小学三年生だった昭和20年7月10日未明に起きた。
少し前からB-29がおもに単独で飛来していたのだが、その晩は数えきれないほどの爆撃機の編隊が、サーチライトがせわしなく交差する夜空に姿を現した。
それから間もなく、ばらばらと焼夷弾を落とし始めた。
私たち一家はあらかじめ決められていた近くの防空壕を目指したが、一つ問題があった。父親だった。
二年ほど前まで単身、満州で農園を経営していた彼は異郷での暮らしで体を壊し、農園を畳んで仙台に引き上げてきていた。
空襲の頃にはすっかり足が萎えてしまっており、私と母が両脇を支え引きずるようにして歩かせた。
中学生の姉は工場への動員で留守だった。
私は六尺超の大男の父親の重みに耐えかねて泣いた。
B-29と死への恐怖よりそれは確実にまさっていた。
翌朝早く、防空壕から出てみると意外にも私たちの街区は無傷だった。
姉も顔を煤だらけにしながら怪我一つなく無事に帰宅した。
ところが、この日父の生家がある県北の田舎町へ疎開する予定で仙台駅に預けていた家財道具一式は、駅舎とともにすべて焼けてしまった。
駅から戻ってきた母は地団駄踏みながら泣いた。
気の強い母が泣くのを私は初めて見た。
悲しいというよりは、よほど悔しかったのだろう。
けれども、彼女は転んでもただでは起きないひとだった。
どこで見つけたのか、半分焼けた大八車を曳いており、それに父を乗せると、私たちは駅へと向かった。
そして着のみ着のままで天蓋のない列車にしがみつき、長時間揺られて父の生家へとたどり着いたのだった。」
自宅の改修工事が始まった。
三年ほど前にコロニアル(スレート瓦)だった屋根をガリバリウム鋼板横葺きに葺き替え、外壁を再塗装して以来の工事だ。
今回は腐食してしまった二階ベランダ2か所を撤去し、そこから下の外壁を貼り換える。
建物は手をかければかけただけ長持ちするものなのに、東日本大震災もあって自分のことを万事後回しにしてしまった。
この二度目の改修が年齢的に最後になりそうだけれど、やっと実現して内心ほっとしている。
面白いのは、先月、腐食した自社アパートのベランダ撤去工事を同じ大工さんで行ない、これを予行演習替わりにしたこと。
僕は毎回、工程や仕上がりを絵で描いてみせるのだが、今回はそれが不要になった。
規模や部材のグレードは違えど、基本的に同じ仕上げの建物なのだから、あとは相手の機転と技術に任せるだけだ。
意外に思われるかもしれないが、僕はこれまで口コミを一本も書いたことがなかった。
もともと他者の口コミというものを参考にしないし、まともに読んだこともなかった。
だいたい、5点満点で3点って、換算すると100点満点の60点だろうけど、ひとの大事なお店にそんな点数をつける気にはなれない。
テストで60点など取ったこともないので、自分がつけられたら大ショックだろうから。
もしお店にがっかりしたら二度と行かなければいいし、つまらないことを書いても筆が汚れるだけだ。
そんな僕が、先日初めて口コミを書いた。
飲食店ではなく、とある士業の事務所さんにで、紹介サイトを通して契約したため業務完了後に当初の見積通りの金額を支払ったかなど確認のアンケートがあり、その最後の最後に口コミの記入欄があった。
期限が迫る中、果敢に引き受けていただいたことと、女性の代表ならではのこまやかな対応に心から感謝している、と書き送ったところ、ほどなくして相手から驚きのトーンのお礼の電話があった。
文章力って、こういう風に使うものじゃない?