このたびの東日本大震災で被災された多くの皆様へ、謹んでお見舞い申し上げます。
大震災直後から、たくさんの支援を全国から賜りましたこと、職員一同心より感謝申し上げます。
また、私たちと共にあって、懸命に復興に取り組んでいらっしゃる関係者の方々に対しても厚く感謝申し上げます。
「仙台空襲は私が小学三年生だった昭和20年7月10日未明に起きた。
少し前からB-29がおもに単独で飛来していたのだが、その晩は数えきれないほどの爆撃機の編隊が、サーチライトがせわしなく交差する夜空に姿を現した。
それから間もなく、ばらばらと焼夷弾を落とし始めた。
私たち一家はあらかじめ決められていた近くの防空壕を目指したが、一つ問題があった。父親だった。
二年ほど前まで単身、満州で農園を経営していた彼は異郷での暮らしで体を壊し、農園を畳んで仙台に引き上げてきていた。
空襲の頃にはすっかり足が萎えてしまっており、私と母が両脇を支え引きずるようにして歩かせた。
中学生の姉は工場への動員で留守だった。
私は六尺超の大男の父親の重みに耐えかねて泣いた。
B-29と死への恐怖よりそれは確実にまさっていた。
翌朝早く、防空壕から出てみると意外にも私たちの街区は無傷だった。
姉も顔を煤だらけにしながら怪我一つなく無事に帰宅した。
ところが、この日父の生家がある県北の田舎町へ疎開する予定で仙台駅に預けていた家財道具一式は、駅舎とともにすべて焼けてしまった。
駅から戻ってきた母は地団駄踏みながら泣いた。
気の強い母が泣くのを私は初めて見た。
悲しいというよりは、よほど悔しかったのだろう。
けれども、彼女は転んでもただでは起きないひとだった。
どこで見つけたのか、半分焼けた大八車を曳いており、それに父を乗せると、私たちは駅へと向かった。
そして着のみ着のままで天蓋のない列車にしがみつき、長時間揺られて父の生家へとたどり着いたのだった。」