終戦の年(昭和20年)、小学3年生の冬に私は父親を病気で亡くした。
仙台空襲の翌日に私たち親子は着のみ着のままで天蓋のない列車にしがみつき、長時間揺られてたどり着いた父親の故郷の田舎町で疎開生活を送っていたのだが、気の強かった母は夫が亡くなると間もなく、私たち姉妹を連れて、焼け残った仙台の家へ戻った。
それからの暮らしは本当に苦しいものだった。
東北大の学生課の依頼で、当時珍しかった二階がある我が家へ地方出身の学生さんたちを受け入れて思いがけず下宿屋を始めるまでは、それこそ、その日の食べ物にもこと欠くような生活だった。
元々体が弱かった私はビタミン不足で口中いっぱいに口内炎ができ、話をするのも苦痛で、さらには熱が出て寝込んでしまった。
翌朝、母は私を起こすと二つ先のバス停にあった医院へ連れて行った。
子どもの私から見ても、身だしなみの良い医師だった。
私を診察した彼は少し考え込むと、ビタミン剤を出しておくので必ず飲ませるように、と母へ申し付けた。
ハイ、と母はうなづくと、父の形見の腕時計を懐から取り出し、今はお代が払えないのですが、これをカタに待っていただけませんか、と喉から声を絞り出すようにして言った。
いいですよ、と医師は即答し、机の前に並んでいた厚い医学書を一冊差し出した。
お母さん、これを東北大の正門前にあるTという古書店へ売りなさい。
そのお金でこのお嬢さんに滋養のあるものを食べさせなさい。
玄関を出ると、母はつないでいた私の手を痛いくらいきつく握った。
あれは、嬉しかったのか、それとも恥ずかしく、悔しかったのか。
その後、母は99歳まで生き、私も今や米寿を過ぎた。
さまざまなことがあったけれど、今、思い出されるのは、たまたま触れた人の情けだったりするのが、面白いな、と思うのだ。