(前回からの延長 だがあまり考えずに続けてみる)
モノを語ることは、手に入れて嬉しかったり逆に切なかった思い出を語ること。高齢者になったら買いたいものは暮らしに本当に必要なモノに絞られ、安物買いの銭失いに懲りた裏返しで、新商品はたいがい疑がい、必要なんだから買えばよいのに朝方の小便みたくギリギリまで我慢する。少しはましなモノをと思うがこれが難しい。お金の使い方も生きて来た環境と練習が必要なのだ。
若い時は、働いたお金で電気製品を1個づつ増やしたり、狭い住宅なのに大きな家具を買ったりして悦に入り、一人前になったような気分だった。スーパーやデパートの光に照らされ棚から溢れ出るような商品は見るだけで楽しく安物でも何かを買えることが嬉しかった。お金やモノじゃないよ、大事なのは心だよと思ったりしたが消費文化に隅々まで管理される奇妙な人工的幸福感の押し付けを恐れても、そう思う批判精神があるならまだ大丈夫だと信じていた。そのころのモノは少しの家具を除いてほぼ捨て、作ったモノが下手くそなのに残っているのは何を意味するのだろう。(長くなったのでここで切る 納得できる続きが書けたら嬉しいな)
画像は、ベニヤの切れ端とボンゴピンで作ったダイヤモンドゲーム。小さかった子どもたちが真剣に遊んでいたなあ。ママヨさん作のはず高知県の教員採用試験合格者の7割が辞退のニュース。数年前まで5倍、10倍が普通だった難関試験が・・・。「教師の勤務条件=子どもたちの教育条件」だから、この国は刻々と滅びている。「生きがい・働きがいの持てない先生=わからなく・楽しくない子どもたち」の群れ。先生は仕事を絞って自衛し、子どもは行かずに自分を守る。子どもと先生の生きがいの共有がどうなっているのかとても心配する。