今朝の朝日新聞(2/5 1面コラム『折々のことば』)は、庶民の立場からすると「正義に引きずり回されたくない。それは暮らしていくための生きる術の一つです。」ぐらいになる。自分たちが社会を変えられると本気で思った70年代初頭、学生運動最後の高揚期に大学生活を送った波風氏、周りは『正義』が渦巻き加熱していた。だが、自分の言葉に持てあますほど酔っていた方から順に、「時代のハシカに罹っていた」と上手に立ち回る方々もたくさん見てきた。その方を責めるつもりは毛頭無いし、もしかしたら波風氏も「立ち回り上手な人」と思われているかも知れない。
余程ひどくないと『政治』を語らないが(ずうっとヒドイので、悲しく不安につき言葉にすると更に落ち込むので言葉にしない)、心の奥底に半世紀の暮らしで作られた、磨り減らなかった『正義』を意識する。それは、譲れない芯の通った生き方のことで、青春時代のフアッション的聞きかじり的思想ではなく、頑固でありつつ柔軟でもある感じ。それは、とても鍛えられているのに驚くほど柔らかい優秀なアスリートの筋肉みたいでなければ、いつか切れたり伸びたり磨り減ったりしてしまうもの。波風氏は、そこらを「遊び」と面倒くさいことを「まっ、いいか」の精神で切り抜けてきたので、まだ使えそうな筋が残ったような気がする。
鶴見俊輔(敬称略)は、芯の通った生き方や考え方とはどんなものなのかを時々教えてくれる先生たちの1人。もっともと思うことで、何に肯き何を否とするのか、引きずり回されない思想をわかる言葉で教えてくれる。
思想家・内田樹氏の言葉(「内田樹の研究室」)が面白い。この国のヒドイ状況がある限界をこえつつあるので前からの面白さが一層輝いて感じるからなのかもしれない。10年以上前の国語教科書教材(教育出版)『学ぶ力』は子どもというより大人に、高齢者に役立つ 蛸、竹輪(チーズ入り)、ピーナッツを燻してオヤツにしたりオカズにしたり。竹輪チーズに、ワサビや塩雲丹入れたのも作り「当り!」なんて喜んでいる。