電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

稲場紀久雄『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』を読む(2)

2018年09月29日 06時05分45秒 | -ノンフィクション
伝染病であるコレラの感染を防ぐためには、上下水道の整備が急務でした。明治政府は、英国から衛生工学の専門家を育てるため、外国人教師を迎えることとします。このとき選ばれたのが、ウィリアム・バートンでした。
1887(明治20)年5月、ウィリアム・バートンは来日し、帝国大学工科大学土木工学科衛生工学講座の初代教授に就任します。同僚のお雇い外国人教師たちが、日本人女性を妻として仕事に勤しむ中で交流を深め、首都東京の上下水道計画の立案を進めていきます。残念ながら、上水道を公設する方針までで財政余力は尽きてしまい、バルトンの下水道計画は幻となりますが、上水道計画は実現に向かって動き出します。

ウィリアム・バルトンの事績を追っていくと、明治の時代に東洋の島国にやってきた青年が、力を振るい自分の持つ理想を実現しようと奮闘する様子がよくわかります。一方で、写真技術を駆使して会津磐梯山の噴火や濃尾大震災の様子を記録・発表したり、浅草十二階タワーを設計したりという話題も興味深いものがありますが、なんといっても後半のペスト禍迫る台湾行きがすごい。「恐怖の悪疫島」と呼ばれた台湾衛生改革の防人として、衛生改革の方向性を定めます。
そして1898(明治31)年、台湾の水源探索行の途中で熱病に罹患、いったん回復しますが、翌1899(明治32)年、アメーバ赤痢に感染・再発し、8月に死去します。

未亡人・満津と遺児・多満らのその後も、歴史の荒波に翻弄されるような波乱がありますが、若いバルトン先生が駆け抜けた明治の日本や台湾の姿が、その後どのように変貌しているかを思うとき、先駆者の姿に心から尊敬の念を覚えますし、それを明らかにした労作に感謝したいと思います。

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