平凡社から2016年10月に発刊された単行本で、稲場紀久雄著『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』を読みました。副題に「近代化に献身したスコットランド人の物語」とあるように、明治20年に来日したウィリアム・K・バートンの伝記です。帯には、「謎に包まれたバルトン先制の全貌解明!」とビックリマークが踊り、「帝国大学教授としてコレラ禍から日本を救うため、上下水道の整備を進める一方、日本初のタワー・浅草十二階の設計を指揮、さらに写真家として小川一真の師であったバルトン先生。」と紹介しています。そして表紙には、和服を着てキセルを持ち端座するヒゲの異人さんの写真が掲載され、なんとも興味を引く装幀となっています。
本書の構成は、次のとおり。
著者は京大で衛生工学を学び、建設省で下水道行政に携わっていた方のようで、「米国研修中に日本の衛生工学の原点をよく知らないことに気づいて、明治の近代下水道について調べ、バルトン探索行が始まった、と書いています(p.12)。このあたりの経緯は、なんとなく上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』が書かれた事情と似ていると感じます。)
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父ジョン・ヒル・バルトンは、スコットランド刑務庁の書記官となり、法律家として「人はなぜ犯罪に手を染めるのか、またどうすれば犯罪を防げるのか」を追求し、「人は皆同じようにこの世に生を受けるが、教育がその人生を変える。教育を受けることは人としての基本的権利であり、学ぶことによって人はより良い人生を生きることができる」と信じ、妻キャサリンが結婚後も女性の教育の権利のために活動することを当然のことと受容したとのこと。(p.53)この夫婦のもとに、1856年5月11日、ウィリアム・キニモンド・バルトンが誕生します。
息子ウィリアム・バルトンの少年時代、少年アーサー・コナン・ドイルが一時身を寄せますが、これはドイル家の父親のアルコール中毒による家庭的困難を支援したもので、これもバルトン夫妻のこうした考え方が基礎になっていたのでしょう。後に大作家となるコナン・ドイルとバルトンとの友情は、この時から始まったと言えますし、ドイルの小説をおもしろがり、励ましたバルトンの存在は、少年ドイルにとって大きな励ましになったことでしょう。
さて、ウィリアム・バルトンは、大型船舶や船舶機械の設計会社に徒弟(アプレンティス)として入社し、技術者の道を歩み始めますが、生涯を捧げる仕事として衛生工学を選び、徒弟修行の終わりとともに祖父コスモ・イネスから写真関連の遺産を受け継ぎます。1880(明治13)年、ウィリアム・バートンは叔父コスモ・イネスJrとともにロンドンにコンサルタント会社を設立します。叔父の母校キングズ・カレッジで分析化学の一ヶ月コースを受講したほか、「古民家の衛生検査と給排水設備の更新」について発表するなど、まず水質を検査し、必要な設備を取り替えるという、基本に忠実な対応を続け、1882(明治15)年に主任技師となると、衛生計画の立案、衛生設備の設計、施工、保守に活躍し、当時のロンドンの衛生状態の改善に貢献します。
本書の構成は、次のとおり。
プロローグ バルトンの夢を追って
第1章 故郷エディンバラ
第2章 知の巨峰、父ジョン・ヒル・バートン
第3章 ウイリー誕生、バルトン幼少期
第4章 技術者への道、バルトン青年期
第5章 永訣と自立と
第6章 ロンドンでの活躍、そして日本へ
第7章 バルトン先生の登場
第8章 国境を超えた連帯
第9章 首都東京の上下水道計画
第10章 日本の写真界に新風
第11章 浅草十二階―夢のスカイ・スクレイパー
第12章 濃尾大震災の衝撃
第13章 望郷―愛の絆
第14章 迫るペスト禍と台湾行の決心
第15章 台湾衛生改革の防人
第16章 永遠の旅立ち
第17章 満津と多満―打ち続く試練
第18章 ブリンクリ一家に守られて
第19章 多満の結婚とその生涯
エピローグ 時空を超えて
著者は京大で衛生工学を学び、建設省で下水道行政に携わっていた方のようで、「米国研修中に日本の衛生工学の原点をよく知らないことに気づいて、明治の近代下水道について調べ、バルトン探索行が始まった、と書いています(p.12)。このあたりの経緯は、なんとなく上林好之著『日本の川を甦らせた技師デ・レイケ』が書かれた事情と似ていると感じます。)
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父ジョン・ヒル・バルトンは、スコットランド刑務庁の書記官となり、法律家として「人はなぜ犯罪に手を染めるのか、またどうすれば犯罪を防げるのか」を追求し、「人は皆同じようにこの世に生を受けるが、教育がその人生を変える。教育を受けることは人としての基本的権利であり、学ぶことによって人はより良い人生を生きることができる」と信じ、妻キャサリンが結婚後も女性の教育の権利のために活動することを当然のことと受容したとのこと。(p.53)この夫婦のもとに、1856年5月11日、ウィリアム・キニモンド・バルトンが誕生します。
息子ウィリアム・バルトンの少年時代、少年アーサー・コナン・ドイルが一時身を寄せますが、これはドイル家の父親のアルコール中毒による家庭的困難を支援したもので、これもバルトン夫妻のこうした考え方が基礎になっていたのでしょう。後に大作家となるコナン・ドイルとバルトンとの友情は、この時から始まったと言えますし、ドイルの小説をおもしろがり、励ましたバルトンの存在は、少年ドイルにとって大きな励ましになったことでしょう。
さて、ウィリアム・バルトンは、大型船舶や船舶機械の設計会社に徒弟(アプレンティス)として入社し、技術者の道を歩み始めますが、生涯を捧げる仕事として衛生工学を選び、徒弟修行の終わりとともに祖父コスモ・イネスから写真関連の遺産を受け継ぎます。1880(明治13)年、ウィリアム・バートンは叔父コスモ・イネスJrとともにロンドンにコンサルタント会社を設立します。叔父の母校キングズ・カレッジで分析化学の一ヶ月コースを受講したほか、「古民家の衛生検査と給排水設備の更新」について発表するなど、まず水質を検査し、必要な設備を取り替えるという、基本に忠実な対応を続け、1882(明治15)年に主任技師となると、衛生計画の立案、衛生設備の設計、施工、保守に活躍し、当時のロンドンの衛生状態の改善に貢献します。