嘉永六(1853)年、ペリー率いるアメリカ合衆国の東インド艦隊の黒船四隻が、日本に来航しました。東京湾一帯の村々や江戸幕府が大騒ぎしたことは想像に難くありませんが、ペリーが突きつけた開国と和親条約締結の要求は、鎖国日本の国是を揺るがす大問題でした。
時の老中阿部正弘は、現代風に言えば情報封鎖ではなく情報公開の立場を選択します。大名だけでなく一般庶民にまで、黒船来航の事実を知らせ、あるいはこれに対処する方策を問うたのだそうです。このため、全国各地に様々な黒船絵図やペリーの肖像画が残っているそうです。
中央から遠く離れた出羽の国、今で言えば山形県天童市にも、黒船来航の絵図が伝えられました。残念ながらこの年の「御用書留帖」に記載はない(*1)ものの、嘉永六年当時に名主をつとめた旧家に「嘉永六丑年 浦賀図入」と表書きのある古文書が伝えられております。この中身は、表記を現代風に変えれば、
(1) 三本マストの外輪船の彩色絵図。旗艦サスケハナ号か。
(2) ペルリ立像。彩色絵図。「当節北アメリカ国より使節、役人 名は水師提督ベルリ」
(3) 江戸湾大縮尺絵図。「嘉永六癸丑年六月三日 アメリカ船渡来の場所」
(4) 浦賀潟小縮尺絵図。台場の配置、担当の藩名などを記載。
というものです。おそらく、写を取って次の村に伝えるなどのやり方で村々の名主のもとに伝えられ、そこから一般庶民に伝えられたと考えられ、当時の情報伝達のスタイルがうかがえます。御用書留帖への記載がないところを見ると、臨時的な伝達ルートだったのかもしれません。
当時の庶民の反応は不明ですが、結果的に幕府の権威の低下につながり、大きくは後の明治維新の伏線になったのではないかと思われます。少なくとも、「夷狄討つべし」という攘夷論が大きく盛り上がったという形跡は、当地には見られないようです。
しかしながら、日本国内の一部には、過激な攘夷論が一定の影響力を持ち始めていました。要するに権力争いの旗印に過ぎないのに、本気で攘夷を叫ぶ者、若者を煽動する者、テロルによって反対意見を封殺する者、それらの動きを苦々しく見守る者など様々なレベルはありましたが、「尊皇攘夷か開国か」は、時代の先鋭な対立点になっていきます。その激動の中心の一つが、今の山口県にあたる長州藩でした。
(*1):『天童市史編集史料第7号』には、嘉永七年の「御触書(外国船取扱)」(p.82)として、現代表記に直せば「豆州下田湊に滞留のアメリカ船、今般残らず帰帆いたし候。この段、心得の為に向々(それぞれ)へ達せらるべく候」とあり、アメリカ船が来航した事実は確かに伝えられているようです。同じ御触書では、下田と函館の両港にアメリカ船が船繋ぎを差し許された件も、淡々と知らせています。
時の老中阿部正弘は、現代風に言えば情報封鎖ではなく情報公開の立場を選択します。大名だけでなく一般庶民にまで、黒船来航の事実を知らせ、あるいはこれに対処する方策を問うたのだそうです。このため、全国各地に様々な黒船絵図やペリーの肖像画が残っているそうです。
中央から遠く離れた出羽の国、今で言えば山形県天童市にも、黒船来航の絵図が伝えられました。残念ながらこの年の「御用書留帖」に記載はない(*1)ものの、嘉永六年当時に名主をつとめた旧家に「嘉永六丑年 浦賀図入」と表書きのある古文書が伝えられております。この中身は、表記を現代風に変えれば、
(1) 三本マストの外輪船の彩色絵図。旗艦サスケハナ号か。
(2) ペルリ立像。彩色絵図。「当節北アメリカ国より使節、役人 名は水師提督ベルリ」
(3) 江戸湾大縮尺絵図。「嘉永六癸丑年六月三日 アメリカ船渡来の場所」
(4) 浦賀潟小縮尺絵図。台場の配置、担当の藩名などを記載。
というものです。おそらく、写を取って次の村に伝えるなどのやり方で村々の名主のもとに伝えられ、そこから一般庶民に伝えられたと考えられ、当時の情報伝達のスタイルがうかがえます。御用書留帖への記載がないところを見ると、臨時的な伝達ルートだったのかもしれません。
当時の庶民の反応は不明ですが、結果的に幕府の権威の低下につながり、大きくは後の明治維新の伏線になったのではないかと思われます。少なくとも、「夷狄討つべし」という攘夷論が大きく盛り上がったという形跡は、当地には見られないようです。
しかしながら、日本国内の一部には、過激な攘夷論が一定の影響力を持ち始めていました。要するに権力争いの旗印に過ぎないのに、本気で攘夷を叫ぶ者、若者を煽動する者、テロルによって反対意見を封殺する者、それらの動きを苦々しく見守る者など様々なレベルはありましたが、「尊皇攘夷か開国か」は、時代の先鋭な対立点になっていきます。その激動の中心の一つが、今の山口県にあたる長州藩でした。
(*1):『天童市史編集史料第7号』には、嘉永七年の「御触書(外国船取扱)」(p.82)として、現代表記に直せば「豆州下田湊に滞留のアメリカ船、今般残らず帰帆いたし候。この段、心得の為に向々(それぞれ)へ達せらるべく候」とあり、アメリカ船が来航した事実は確かに伝えられているようです。同じ御触書では、下田と函館の両港にアメリカ船が船繋ぎを差し許された件も、淡々と知らせています。
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