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≪夕日のようにも見えるが朝日である!物理的には光の波は同じだろうか?≫
朝日と夕日を久しく撮ってなかった。デジカメの充電器が見つからなくなり、アマゾンで注文したばかり。ミステリーのように身近な物が見つからない事がある。沖縄に来たキャサリンのメガネのように。居酒屋にも宿にも学舎にもどこにも見つからず彼女は台湾に戻ったのだった。不思議がつねにそこにあり続ける。彼女はカンボジアに行くとのことだった。フィールドを広くやっているのだ。自然の景観に触れ、アジアのシアターを追いかけている。その精力的な活動には目を見張る。また沖縄に来ることになる暗示かもね、とメールしたが、彼女の詩集をじっくりよむこともできずにいる。
しばらく太陽が顔を出すまで5階の廊下で待ちながら下をみると例の如く鳩たちが集っていた。もっと写真を撮りたかったが彼らは学舎の屋上が生活圏なのですぐ飛び立っていった。飛べる世界の爽快さがある。
朝日を見つめることは、なぜかロマンが伴う。夕日の鮮やかな橙や黄色やピンクや紫、赤とも異なるものがある。朝日と夕日が目に入るこの空間は悪くはない。気が付くと、太平洋と東シナ海の両方が見える。津堅島が見える。久高島も見える。コンベンションセンターのある東シナ海も浮かんでいるように見えてくる。空と海が近いのだ。風が地上のすべての弊害を癌細胞を吹き飛ばしてくれたらいいね。今日、明日が信じられる今日であってほしいが、確実に時は刻まれ身体は老いていく。時が身体に刻まれることの推移に驚くのでもなく、その自然の時の経緯が花が枯れて地に落ちるように、太陽が昇って沈むように、自然のサイクルに身をゆだねていることは誰しも同じ。母は老いを見つめ、老いの本を読みこんでいたが、自らの死というステージの前、死ぬ間際まで無意識に入るまで、意識は対話を求めていた。こんなはすではなかっただろう、がやってきた。人は皆自らの最後のステージに備えなければならない。ただ突然やってくるそのステージの準備ができないままに逝ってしまうことも多々あるに違いない。悔いのない人生とはどんな人生だろうか?多かれ少なかれの悔いを人は残して逝くのだろうか?己の感性に正直に生きた度合いで人の悔いの度合いが比例するのだろうか?幸せの中身は無限の色合い。個人に番号がフラレすべてが番号で監視されていく、管理されていく時代に入っていくようだ。個の尊厳が損なわれていくのだろうか?プライバシーはその生存する身体そのものから疎外されていくのかもしれない。科学技術の進展が人間の個を奪っていく時代になっていき、アンドロイドとロボットが身近に迫っていくのだろうか?
SFの世界は身近に迫っているのらしい。民族や宗教の括りも消えることはないのだろうか、ISISが日本の若者たちのネット表象≪風刺≫にまた反応してくる時代でもある。未来を捕獲する手、頭脳の先端が常にそこにまたあり続ける。地球惑星は太陽系に飛び出し、ドラえもんが描く未来がやってくるのかもしれない。死にゆく者たちはその有期的時間を精一杯生きて、それぞれの生の役割を演じて、未来の子供達にその後を託して消えていけばいいのかもしれない。幸せだったと言える人生だったら最高だね。精一杯生きる個々の人生ドラマに朝日と夕日は常に美しい夢・希望・象徴であり続けるのかもしれない。
朝日が誕生や始まりのシンボルなら夕日は終わりや死のシンボルである。どちらも光の美を放っている。