(明治10年代の沖縄の風俗かな?)
戦前の辻の芸妓の女性たちは戦後の自由民主主義のアメリカ世の中で、一般の女性たちが歌、三線、筝を嗜むようになった時、やはり先導者・先駆者として力を発揮していました。多くの芸妓あるいは貸座敷アンマーとして力をもっていた女性たちが戦後もまた活躍するのですが、辻にいたということだけで差別されることもあった差別社会沖縄のなごりは続いていたのですね。
夏目漱石が平民の出身だったにも関わらず近代の平等システムの恩恵をうけて帝国大学を卒業して出世していくように、圧倒的に士族ではなく平民が多かった日本社会は、士族をあこがれて社会の体制を築いていったのですね。日本人の大多数が士族が維持してきた倫理や家族制度を近代システムに融合させていったのですね。擬似士族化社会の近代日本ですね。琉球・沖縄は?
3・19のシンポジウムのパネル・ディスカッションでやはり士族を特別に見る眼差しが一瞬起こりましたね。
一方で琉球の士族社会を支えてきた辻遊廓の前近代・近代はどうだったのでしょう?
お筝に関して、興陽会の女性指導者の多くが辻でかなり優れたお筝の技量の持ち主だったことはよく知られているのですが、根路銘ノブ先生が『沖縄百科事典』で系図化された図表は、大正から戦後にかけて活躍された(ている)お筝の女性の方々のお名前が掲載されています。
そこに記載されている女性たちすべてが戦前辻で活躍されたわけではなく、戦後先駆者からバトンタッチして活躍した(している)方々のお名前も掲載されています。その中のお一人国吉シゲさんは中島とみ先生のお弟子さんですが、先生と並べて名前を記載してしまいました。興陽会の記念誌を開いて見た時、芸能研究家の偉い先生がこのラインから上はほとんどが辻の方々だよ、とのお話をうかがったり、また若い頃お筝を習っていた先生からも似たようなお話をうかがっていました。しかしご家族からしっかり確証を得ないで記載してしまいました。『報告書』をお持ちのみなさんは、ぜひ訂正お願いします。国吉シゲさんは女学校を出られた優秀な方だとお聴きしました。会場にこられたシゲさんのご家族の方からお電話があり、たいへん失礼なことをしたことがわかりました。申し訳ありませんでした。これは今から手直しして論文としてもっと充実させる中身です。ご指摘のあった箇所はたしかに削除してもいいかもしれませんね。←もっと吟味したいと思います。
5千円札の樋口一葉のお父さんが幕末に幕臣の身分を買って士族になったように、琉球王府時代も那覇の平民の中で士族の身分を買った方々がいました。辻のアンマー=貸座敷の資産のある女性が自ら首里の士族との間にできた娘を辻の近くの上の蔵や若狭の親戚や知人の養女にし、ジュリのしがらみから立身させていくことも可能だったのですね。商才に長けていた那覇のアンマーたち、また辻のアンマーの中にも妓楼を所有していた女性たちがいたのですね。
薩摩の商人の現地妻になって商才を発揮した女性たちもいました。其の中で商売で富を得た女性たちも出てきたのですね。実は辻と関係がないと出自を否定する方が実際は何らかの形で繋がっていたということもあるのですね。山里永吉さんのお父さんは辻に妓楼を二軒もっていました。辻の地主、貸家をもっている人々は裕福だったと云われていました。その妓楼の持ち主は意外と60%近く女性たちです。
つまり女学校を出た女性のおかあさまが、辻のアンマー(貸座敷)の有力者であったこともありえますね。カムフラージュというより、社会のシステムをうまく乗り越え出世するために教育が力をもったのは沖縄でも同じだったのですね。
平民だった夏目漱石が東大帝国大学を出て社会で名声を得る構図があったように、近代の沖縄でも元は百姓、あるいは辻で生まれた子供が立身出生していった方々もいたのです。