志情(しなさき)の海へ

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日本女性の強さ描く映画「母の道、娘の選択」(我謝京子監督)を見に行った。久しぶりの桜坂、館内は満席?

2011-03-20 23:11:17 | グローカルな文化現象

ニューヨークで生きる道を選んだ日本女性たちをドキュメントで描いた作品!清水京子さんのつれあいの祖父が沖縄出身だという。映像の中でも当初、清水京子の名前でテレビの報道の現場に立っていた彼女がなぜ夫の姓(我謝)を名乗るようになったのか、その辺の背景など興味を持ったがそれは開示されなかった。姓の読み方が「がじゃ」ではなく「がしゃ」であることも興味深かった。沖縄では「がじゃ」が東京では「がしゃ」になる。やはり音に違和感が起こってもいた。彼女のテーマが日本からニューヨークに移り住んだ日本人女性と娘たちであることにも。それだけでは彼女の自分史のようで、シングルマダーなどを含め、自己主張をして、自由に動き回れるニューヨークという空気・空間・場のもつサラダ・ボールのユニークさは分かるが、どこか物足りないと思っていたのも事実。

お茶をたしなみ、茶道をニューヨークでも教えながら株などに関するロイターの実況中継をしている我謝京子さんのバイタリティーは魅力的に見えたが、気になっていたのは、母と娘の関係が強調され、夫と妻の対の関係など、sexualityが曖昧である。ジェンダーの面で、彼女たちの意気揚々とした生き方はなるほどと感心もした。しかし、窒息しそうな日本の空気の中よりニューヨークの方が泳ぎやすいように見えるのだが、彼女たちの人間の関係性の深い綾は描かれない。そこが不満と云えば不満で、在る面でそれはまた表層的にも思えた。

テレビ局で順調に仕事をこなし社内結婚をして子供を産んだ彼女が娘と共に仕事をするバリバリのキャリアをまた積み重ねていく。しかし、ニューヨークでなくても子供を育てながらキャリアを持続的に追及する女たちは増えている。結婚、子供、仕事、多民族、実に多様性の中、いわばグローバル環境で仕事をし母を生きる女たちの闘いは、日本という文化基盤をニューヨークでも生かすという、より豊かなダブルな環境を飛び跳ねる。それはクールである。しかし?

あなたの人生の豊かさが、幸せが十分伝わってはこない。それは意図的に我謝京子が避けた人間の関係性、ほとんど登場しない夫なり恋人なりを描かない限り、それはまた片手落ちという事になる。何人も自らの身体性とそれぞれの愛の形を生きていると思うゆえに、独身であろうと、シングルマダーであろうと、関係性の奥深さがしんみり見えてこない関係のありように薄っぺらな何かを感じていた。それで、それからどうなるの?移住して成功しているあなたの生き方、選択、は成功している。あなたのパートナーさんは幸せに一人で生きていたの?

母と娘だけがその家族として存在しているのではない。異性の存在をあっさり切り落とすところが、なぜ?と疑問をもっただけかもしれない。

性別や人種が多様になるほどアメリカは強くなるという考えは大学の英語テキストのエッセイにも出てくる。単一民族の神話の限界がある。人類の歴史は多かれ少なかれ血の混合の歴史そのものなのだろう。それはそれで弁証法の論理が活きてもいるのだろう。罪悪感と選択がテーマだとすると、我謝京子は何に対して罪悪感を持つのだろうか?数多の日本女性が旧来の縛りの社会に生きている、生かされているにも関わらず、自分は娘と自由な空気の中、グローバルな世界都市に住んでいるという罪悪感なのだろうか?曖昧!ユダヤ人女性が別の人種の男性を好きになると感じる罪悪感とは異なるモノーー?

沖縄からアメリカにわたっていった女性たちはどうなのだろうか?米兵と結婚していった女性たち、幸せと不幸の色はどこにもありえることで、強いてそれがニューヨークだから、という限定は、個人史としてはうまくできている。拍手でいいのかも、でも物足りなさが残った。彼女はニューヨークに生きる事の意味を手繰り寄せたかったのだろう。2001年の9・11の同時多発テロのニューヨークに遭遇した被災体験が映画化の動機になったという彼女は、映像の中で9・11を深く掘り下げる様子はない。

9・11を本気で掘り下げながら国家と国家の関係性や民族性の複雑さまで踏み込めたら、単に母と娘の人生の選択を越えた何かがまた描かれたかもしれない。彼女は茶道を映画の冒頭と最後にもってきた。それでアメリカのプログラマティズムに対抗する自らの文化の根を示したのである。文化は融合し離反し合う。固有性と普遍性(不変性)。異なるものを受け止める度量の大きさ・深さが人間の属性としてまた試される。

人類は互いに理解しあえる。どの場や空間にあろうと、異なる習俗や文化を生きながらかつ共有しえる。つちかってきたものは消せない。消えないものと消えるものがある。人間の属性の普遍性(不変性)、そのありようとは?異文化を生きるという事、同化と異化はどこにいても起こるのである。それでかつその環境に順応しながら生きていく。

すでにどこにいても世界の中心で、こなたとかなたは繋がっている。内にいて異国を生き、異国にいて内なる祖国を生き得る。

<写真は2011年3月17日、琉球新報に紹介された我謝京子さんと彼女のドキュメント映像紹介記事>


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