以下はチラシである。アジア系(日系アメリカ人)作家と画家の芸術を通した表現活動、アジア系研究者の分析と提言、フィリピンの世界的なファシリテーター・活動家でやはりファブリックを使った芸術家のお話と中身の濃いシンポジウムだった。英語の発表で日本語翻訳は準備されてはいたが、すべて回収という秘密主義は以前と変わらない。聴衆を恐れているのか、ただ研究会レベルのワークショップをシンポジウムの形式にしたという事だが、聴衆を恐れる研究者のスタンスは最近の傾向かもしれない。知的構築を外部に持ち去られないための仕組みだが、最初から翻訳などもなくてもいいのである。発表はすでに公のものだからその中身に関しては聴衆はコミットできるのである。知的著作権と開示の瀬戸際があるのだろうか?最近公開用のPPTと資料を見た時、PPTで一瞬開示しても資料に反映されない場合もある。すべて恐れなのかもしれないね。何から何への恐怖心か、よくわからないが、知的バトルの競争ということなのだろうか?
知はどれだけ開かれるのだろうか?昨今はいわゆる既得権のような知識人の言説にも疑いを持つようになったネット社会がある。もはや既成の既得権者のことばにだまされないぞというスタンスはいいね。
さて公開シンポは若い女性聴衆を中心に30人~40人ほどはいただろうか?関係者が10人ほど。圧倒された。基調講演は40分ほどでその後3人の講演が続いたが、インパクトはあったね。やはり芸術家の視線のありかはいいと思った。アートを芸術をコミュニティーの再構築への視点は、実際のアメリカやフイリピンの実例にインパクトがあった。アメリカという巨大移民国家には様々なディアスポラの芸術家がひしめいいているのだろうし、その中でアジア系、中でも日本や琉球弧出身(出自)の方を今回招聘し、それにフィリピンの著名な女性を招聘したのである。その基準は?コーディネーターの関心のありかということなのだろう。
帰りに、こちらとの接点が弱いね、と知人が話した。中身に関しては12月に報告書が発行されるようだからそれで十分吟味できるだろうが、ハイカラなアメリカの実験・経験が全てに先導するわけではないが、やはりLingua Francaで英語帝国主義が世界を包んでいるのだとまず認識させられる。知識人の優位性(権威)をある面で無意識に押し付けているということは暗黙の了解のような感じで、個人的には来年3月ワシントンDCでシンポジウム発表があるので、その形態を見るのも拝聴するのも興味があったが、国際会議の表層はあまり変わらない。
カレンさんの話は総括的で革命的女性を例示した。オノヨウコも登場、様々な第三国出身の女性たちを中心に女が置かれている状況とその境界で白人紳士協定を超える方向性の在り処が例示されていた。ベティーはカレンの研究者でその視点からの分析、もう西欧なんていいよのスタンスでハイブリディティーや流動性、汎アジアの可能性が浮かび上がった。もう限界にきている西欧主導の世界が厳然としてそこにありそこから何処へいくのか?
アルマさんはアメリカで政治運動にも関わっている方でアートと政治運動を実践してきた奄美出身の祖父母を持つ女性。彼女のアートがなかなか見せた。アジア的といおうか、ラテン的といおうか、先祖の神話を取り入れたアート制作は根を取り戻す行為にも見えた。アートの可能性は審美的なものに留まらない。アートが社会を地域を国を変革させるバネになりえる。
ルースさんはキューバや北欧や日本でもワークショップを開催している実践的なフェミニスト芸術家で、ヒーリングを根に持ちながらファブリックの創作をしながら世界とつないがっている。慰安婦の家の女性たち、虐待を受けた少女たち・子どもたちとの実勢的取組をしているパワフルな女性!高里鈴代さんや大田昌秀さんとも知古の関係にあるとのこと!んん、沖縄の女たちは政治的だが、芸術領域から政治・変革へのコミットは弱いので4人のお話はすごくインパクトはありすぎた。しかし山城知佳子のPerforming artsは彼女たちの作品に勝るとも劣らないし、崎山多美の作品も上里和美の作品も凄いのである。地元の実践的芸術家たちとのシンポジウムを企画したくなった。
かなたが必ずしもバラ色の実践でも華でもない。足元の表現者たちの豊かさもみたい。ただ共通項はあるね。アジアだ!アジア的なものとはなんだろう?インディオの世界観にも通じるアジア的な感性が世界を席巻しえるかな?もっとMIXで多様にHYBRIDでFLUIDなものが溢れる世界かな?即興的印象でした!中身は吟味してみたい。フェミ二ズムの眼差しの可能性でもある。痛みを持ったものたちからの声の可能性でもあるね。それぞれの表現・表出と実践。昨今は賞をもらった作家や作品ではなく(それらは大衆の集合的無意識の華)、無名の声の表出《表象》に関心がいく。つまり突出した表象の影にあるもの、それを掬い出したいと思う。影の影でもいい。表の華(花)だけではない圧倒的な陰の花たちの声に耳を済ましたい。大学の脱構築がどこまでいけるのか、興味をもっている。大学こそ講演者が否定した体制(権威・権力)の牙城(支持母体)そのものだからね。
大学など、既成の知の構造に風穴を開ける可能性、隙間を埋める可能性はどこにあるかと考えている。大手のテレビ/新聞メディアは大政翼賛会的傾向の日本だしね、ネットグラス・ルーツはまだ可能性はあるのかな?誰でも表現者でありえる世界であってほしい。否、人はみな世界の劇場、それぞれの場における劇場の主人公でありえる。人は、それぞれの人生(ステージ)の俳優/女優でありえる。つまり生きているこの世界で表現しながら生きていることになる。形としてどう表出されるのかは人それぞれだということになる。しかしこの世界は非情な格差によって、差異の上にすべてが成り立っている。経済システムも政治システムも文化システムもそうだ。その中で表現できる機会を与えられる人間の数は限られているのかもしれない。存在や生きることそのものが表現であったとしてもー。生きているため息そのものが声であり、表出と言えるのだろう。しかしそれが形として抽出されるのが芸術作品ということになるのだろうか?マーケットのルートにのって享受される芸術作品(アートや小説など)がある一方でひっそりと陰に埋もれる声(ことばやアート)もあるのかもしれない。
人生は長くて100年でも短い。その限られた時間の中で何かを表出することができる人間は恵まれた天分の持ち主か、創造の羽を飛ばすことのできる優れた感性の持ち主なのかもしれない。しかしだれもが表現者でよりよく生きる人間社会を目指したい。時間や会社《社会システム》の奴隷ではなく、自由な感性を発信できる自由な創造空間(監視されるIT社会、透明なる全体主義社会の到来にも見えるが)、声を発信し声がつながり得る社会、世界、地球を!