最近、猫たちもクラシック音楽が好きになっているようだ。
ラジオはNHK・FMのクラシックチャンネルをonにし、PCでもクラシック音楽をかけながら本を読んだりしているので、自然と耳が慣れてきたのかもしれないと勝手に想像している。
(暴風下、手足を伸ばして寝ている。)
風雨を避けて大きな茶と白のオスネコが家の中に入り込んできた。暴風雨ゆえに、アルミサッシの窓をすこし開けている出入り口から入ってきているが、見て見ぬふりをしている。お腹が空いているので食べ物と安らぐ場を求めてのことだが、シーバが威嚇している!首輪のない大きな猫は捨て猫かもしれない。アウ―、アウーと大きくなきながら徘徊している。(台風の最中ゆえに大目に見ているがそのまま飼うことはできない。)
小さな庭があるだけで、すっかり猫のいる屋敷になってしまった。地域猫として通り会で理解してくださる家庭とやはり猫嫌いな方々もおられる。気が付くと家の周りには数匹の他の猫たちもも住んでいることが分かる。小さな杜が残っているのでそこにもやってくる。また界隈の住宅の地階、柔らかい土の残っている場所は近隣の猫たちの遊び場、排泄場になっているようだ。その下にまだ開発されていない茂みがあり、そこも猫たちの交流の場になっているのらしい。彼らは隙間を見つけて動き回っている様子。
以前トルコのイスタンブールの野良猫たちのドキュメント映画を観たことがある。猫はイスラム圏では神のように尊ばれるという。日本では三味線の皮になる。沖縄の三線はニシキヘビの皮を使っているが、動物の皮をなぜ使うようになったのか、それなりの歴史があるのは分かるが、人間と動物の関わりの歴史的な象徴に見える。昨今は人工皮も使用されている。
猫と人間のDNAは80%類似するというデータを見ると動物虐待などできなくなる。生き物はすべて生き物ゆえに、食物連鎖があるが、それも変化していくのだろう。コオロギがたんぱく源として国が推奨する時代になっている。その良し悪しは、時が解決していくのだろうか。受容できる変化とできない変化がある。
思うに紀元前のギリシャの哲学者(アリストテレスやプラトンなど)の書籍が現在でも重宝されていることは、人間性なり人間社会の本質的な部分は変わっていないということを意味するのだろう。科学技術の発展と文明の進展の根にあるもの、宗教や文化などの力は、形而上と形而下の相互補完的な関係に思い至る。猫たちはその中でどんな位置づけをされてきたのだろう。神のように愛されてきた猫たちは、無下にできない存在である。
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