「現代版組踊」があり、「新作組踊」があり、「創作組踊」があり、そして今度は「組踊喜劇」である。組踊があり、古典組踊があり、そして新作組踊がある。
大城立裕氏の「さかさま執心鐘入」も「遁ぎれ結婚」もいわば喜劇である。新作組踊と冠がついている。創作組踊と言えばすべて創作であるゆえに、新作組踊でいいのではないのか?組踊は悲劇ではなく、形態はwell-madeである。予定調和的に物語が終結する。それをハピーエンドに終わるとする研究者もいる。悲劇ではないーー。
組踊を悲劇と定義したのはかの池宮正治氏だが、その流れで笑いがあるから組踊喜劇としたのだろうか?お能と組踊の比較検証はいい論文があり、田中英機氏などは歌舞伎の影響を強調されているようで、あえて新作組踊ではなく新組踊と新歌舞伎のような名称にこだわりをみせる。しかし舞台の骨格からして、お能の影響の大きさもあり、「~の縁」のような題名ゆえもあり歌舞伎的な影響も時計回りの物語の推移やカラフルな衣装に見るイメージから納得はできる。しかし新作能のように新作組踊でいいのではないだろうか?歌舞伎ではない。
「さかさま執心鐘入」はどたばたな喜劇で本歌取りだが、さかさまにしたらどうなるのか、大城氏の遊びの要素が大きく感じられた。その物語も遊びながら創作は笑えて泣けて面白かった。「執心鐘入」そのものが既知のすでにパターン化した物語だからでもあろうか?女が男に惚れて鬼になる、これほど凄いそそられる物語はそうない。「遁ぎれ結婚」にしても復帰を皮肉に風刺した劇であり、哀愁が込められた、半ば自嘲的な面もある、日本復帰という沖縄の大転換期を風刺した作品である。すでにあるものをひっくり返したらどうなるのか?あるいは全くの世替りだと、どう世界は動くのか?社会の動きをじっくり見据えた眼で捉えたやはり風刺劇なのである。琉球処分の小説を書き、「世替りや世替りや」の沖縄芝居の喜劇をすでに創作した作家が復帰の大転換をテーマに据えたのは、目の付けどころが良すぎるということになる。案の定面白くて涙がでた。
冷徹に世替わりをまた見つめる眼差しゆえに滑稽さを浮き彫りにできたとも言えようか。
そして高江洲ギカンさんのこの「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」である。7月に販売されていた、脚本に目を通した時、これは面白い劇で、お能とのコラボレーションの羽衣伝説よりはるかに面白いと思った。期待できる喜劇芝居だと、感じていた。組踊にするとすると、どう演出するのだろうか、と興味をもっていた。今回伸び伸びになっていたのがようやく上演された。結果は面白かったが、高江洲さんが作曲家であるゆえの功罪が出た舞台に思えた。
当初読んだ戯曲は沖縄バージョンのドンキホーテになっていた。しかし嘉数道彦が手を入れて(?)シンプルにした新作組踊は当初の戯曲を読んだあの大きな笑える沖縄のドンキホーテではなく、運玉義留と油喰坊主の焼き直しで組踊の型にのせた物語の展開。奇抜な点は乞食に変身したウミナイビの登場である。そのウミナイビが義賊と共に盗みを働き貧しい民人に施しを与え、捕まる。しかし女乞食は実はウミナイビでハッタラーとクルルンの命を助け、二人は百姓として汗を流すことを了承し、ウミナイビと別れるという設定である。
語りをマルムンを登場させる事によって物語の推移を語らせるはいいが、主人公たちがマルムンであるゆえに、そこに別の筋書きを仕込んでも良かったのだと思う。士族の夫婦などを登場させ、「最近は強盗に入られる御殿内が多くなったようで、こちらもどうにかしないとね、巷では」などと対話があって、その筋書きを語らせるとか、寺の坊主が登場するとか、色々考えられる。
面白かったのは額縁舞台に組踊の三間四方の舞台を造り奥に橋懸りを置いた。それで立体的にはなった。短めの柱もある舞台の世界では組踊の唱えをさせる。その舞台からはけたところで対話調のウチナーグチの口語や歌で台詞が流れた。なるほどで、その使いわけは広がりを持たせた。おまけに花道まで使った。つまり歌舞伎的、沖縄芝居的要素を交ぜ合わせた新作組踊になった。あるいは新しい沖縄芝居の誕生でもあろう。組踊の唱えなり、型を取り込んだ物語の構成である。
舞台の設定は、組踊りと沖縄芝居の折衷である。沖縄芝居実験劇場が試みた舞台の実験と似ている。薩摩琵琶がライブで演奏披露するのはいい。しかし薩摩在番屋敷を狙った義賊たちは囚われてしまう。薩摩在番の意味性が薩摩琵琶で表象されるのはギャップがあった。
いきなりハッタラーとクルルン、そして姫君が捕らえられるのである。処刑の場へ、そこに救いの手が差し伸べられる。そして?
薩摩在番屋敷を登場させるともっと物語の奥行きが必要になる。そこが切れている。またウミナイビが乞食として泥棒家業をするのは面白いが、ウミナイビが泥棒家業をする場面は割愛されている。チョンダラーの旅姿で終わり。その後の大変身は華麗で、この間なかったウミナイビの登場のさせ方だった。
演技だが呉屋かなめはいいね!ただ「えーたい」は女ことばで「ええ―さい」が男ことばである。その辺のウチナーグチの問題はクリアしてほしい。またハッタラーとは機知に富んだ者をさすことばである。がこの作品の中で機知が披露されることはなかった。トリックはあったがーー。ハッタラーの当銘由亮の演技は冴えていた。ある面見えを切る所で一瞬真喜志康忠の声音を感じさせた。彼は役柄を勉強しているのだと納得。とてもハンサムでかっこいいハッタラーだった。王女が惚れてもおかしくない役柄である。
音楽が良かった。曲を一応全部メモったのだが、創作もあり古典もあり、唱えと踊りと歌と軽快な音曲もあり、義寛さんの心粋が感じられた。ア―キ―もあり、創作曲の面白さもあり、具体的に曲目を紹介したい。せっかくのパンフで紹介していないのが残念である。音楽は全体の構成で重要な役割を果たしている。軽快さを後押ししている。小嶺和佳子のウミナイビ姿はあでやかで素敵だった。美しい琉球のウミナイビである。義狭心があり、正義感の持ち主!役人(大主)の宇座仁一さん、供川満香多さん、玉城匠さん。酒に酔って、酔い足での入羽などは面白いと思った。すり足ではない。組踊の型もどきである。また拍子木で動きを止めたり、組踊の唱えからウチナーグチの口語に転換したり、と拍子木の面白い使い方をした。それが結構笑いをとっていた。
狂言手事、湊くり節、伊集のガマク小節、ヤグザイ節、安波節、八太郎とクルルンのテーマ曲、連れひき、クーサンクー、ア―キ―、よしやいなう節、などなどの歌・三線は舞台を楽しくした。
組踊のステージとそれを囲む空間、差異の付け方は面白かった。落差をもう少し工夫する必要があるようだ。またせっかくウミナイビを登場させるならば、薩摩役人も登場させ、うみないびが色仕掛けの接待をするとか、そしてハッタラーたちを助けるとか、具体的なアクションが見えたらもっと良かったね。水戸黄門さん的にウミナイビが演じるわけだが、ウミナイビの力はどれほどのものだったのか?実際の「お裁きの場」に出てこられた身分だったのか、も気になっている。
王府時代の組踊は女が女を演じることはありえないので、この喜劇調のお芝居に登場するうみないびは奇抜な設定である。侍・百姓の身分社会があからさまな世にあってそれに憤りを覚えたハッタラーが金のある連中から奪った物を貧しき者達に分け与えるために活躍するそのアウトロー的男の魅力にウミナイビも心惹かれたのだという事が感じられる舞台ではあった。ローマの休日の例のオードリーヘップバーンの王女が逃亡から元の役割(城)に戻るまでの筋書きにも似て、高貴な身分の者が貧困層のヒーローに混じって活躍、やがて本性(身分)を表わし、事を納めるパターンである。
物語の筋書きが既知のパターンゆえに入りやすいが、すでに沖縄芝居の中の義賊たちの物語があり、それをまぁ本歌取りで拝借した物語を組踊風に焼き直して見せた。そして創作音曲も含め、道行に使って楽しませた。チャンプルー劇場である。組踊の型あり唱えあり、歌劇ありウチナーグチ台詞があり、マルムンが主役である。強いて額縁舞台の中に仰々しく三間四方(サイズは?)を設置することは無意味にも思える。大きな舞台で組踊の型や唱えをやって見せても問題はないと言えよう。それほどの差異が設置された舞台から迫ってはこなかった。嘘とリアリティーの落差ではなく、あくまで社会の規範の中の階層が組踊のステージで、その脇は庶民の暮らしなり生活空間としてある。型の世界は秩序であり、それからずれたのは反旗を翻す者たちの空間と取れない事もないが、その規範の世界の崩れを糺すのがウミナイビである。なるほど、そのウミナイビにハッタラーは惚れた。命を救われ、汗水流す百姓に戻る。
すると、ハッタラーの社会改革はどうなったのか?ウミナイビが彼の夢なり革新の決意を吸収してしまったということでピリオド?盗むという皮肉を込めて薩摩在番屋敷まで突き刺す思想の深さは義寛さんにはなかった。薩摩琵琶の演奏で終わってしまっている。残念!その辺が高江洲ギカンさんと監修の田中英機さん、演出の嘉数道彦さんにもっと追求してほしいと思った所です。
これはいくらでも構成し直せる現代沖縄芝居になれるね。あるいは新作組踊と言えるのかもしれない。
大城立裕氏の「さかさま執心鐘入」も「遁ぎれ結婚」もいわば喜劇である。新作組踊と冠がついている。創作組踊と言えばすべて創作であるゆえに、新作組踊でいいのではないのか?組踊は悲劇ではなく、形態はwell-madeである。予定調和的に物語が終結する。それをハピーエンドに終わるとする研究者もいる。悲劇ではないーー。
組踊を悲劇と定義したのはかの池宮正治氏だが、その流れで笑いがあるから組踊喜劇としたのだろうか?お能と組踊の比較検証はいい論文があり、田中英機氏などは歌舞伎の影響を強調されているようで、あえて新作組踊ではなく新組踊と新歌舞伎のような名称にこだわりをみせる。しかし舞台の骨格からして、お能の影響の大きさもあり、「~の縁」のような題名ゆえもあり歌舞伎的な影響も時計回りの物語の推移やカラフルな衣装に見るイメージから納得はできる。しかし新作能のように新作組踊でいいのではないだろうか?歌舞伎ではない。
「さかさま執心鐘入」はどたばたな喜劇で本歌取りだが、さかさまにしたらどうなるのか、大城氏の遊びの要素が大きく感じられた。その物語も遊びながら創作は笑えて泣けて面白かった。「執心鐘入」そのものが既知のすでにパターン化した物語だからでもあろうか?女が男に惚れて鬼になる、これほど凄いそそられる物語はそうない。「遁ぎれ結婚」にしても復帰を皮肉に風刺した劇であり、哀愁が込められた、半ば自嘲的な面もある、日本復帰という沖縄の大転換期を風刺した作品である。すでにあるものをひっくり返したらどうなるのか?あるいは全くの世替りだと、どう世界は動くのか?社会の動きをじっくり見据えた眼で捉えたやはり風刺劇なのである。琉球処分の小説を書き、「世替りや世替りや」の沖縄芝居の喜劇をすでに創作した作家が復帰の大転換をテーマに据えたのは、目の付けどころが良すぎるということになる。案の定面白くて涙がでた。
冷徹に世替わりをまた見つめる眼差しゆえに滑稽さを浮き彫りにできたとも言えようか。
そして高江洲ギカンさんのこの「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」である。7月に販売されていた、脚本に目を通した時、これは面白い劇で、お能とのコラボレーションの羽衣伝説よりはるかに面白いと思った。期待できる喜劇芝居だと、感じていた。組踊にするとすると、どう演出するのだろうか、と興味をもっていた。今回伸び伸びになっていたのがようやく上演された。結果は面白かったが、高江洲さんが作曲家であるゆえの功罪が出た舞台に思えた。
当初読んだ戯曲は沖縄バージョンのドンキホーテになっていた。しかし嘉数道彦が手を入れて(?)シンプルにした新作組踊は当初の戯曲を読んだあの大きな笑える沖縄のドンキホーテではなく、運玉義留と油喰坊主の焼き直しで組踊の型にのせた物語の展開。奇抜な点は乞食に変身したウミナイビの登場である。そのウミナイビが義賊と共に盗みを働き貧しい民人に施しを与え、捕まる。しかし女乞食は実はウミナイビでハッタラーとクルルンの命を助け、二人は百姓として汗を流すことを了承し、ウミナイビと別れるという設定である。
語りをマルムンを登場させる事によって物語の推移を語らせるはいいが、主人公たちがマルムンであるゆえに、そこに別の筋書きを仕込んでも良かったのだと思う。士族の夫婦などを登場させ、「最近は強盗に入られる御殿内が多くなったようで、こちらもどうにかしないとね、巷では」などと対話があって、その筋書きを語らせるとか、寺の坊主が登場するとか、色々考えられる。
面白かったのは額縁舞台に組踊の三間四方の舞台を造り奥に橋懸りを置いた。それで立体的にはなった。短めの柱もある舞台の世界では組踊の唱えをさせる。その舞台からはけたところで対話調のウチナーグチの口語や歌で台詞が流れた。なるほどで、その使いわけは広がりを持たせた。おまけに花道まで使った。つまり歌舞伎的、沖縄芝居的要素を交ぜ合わせた新作組踊になった。あるいは新しい沖縄芝居の誕生でもあろう。組踊の唱えなり、型を取り込んだ物語の構成である。
舞台の設定は、組踊りと沖縄芝居の折衷である。沖縄芝居実験劇場が試みた舞台の実験と似ている。薩摩琵琶がライブで演奏披露するのはいい。しかし薩摩在番屋敷を狙った義賊たちは囚われてしまう。薩摩在番の意味性が薩摩琵琶で表象されるのはギャップがあった。
いきなりハッタラーとクルルン、そして姫君が捕らえられるのである。処刑の場へ、そこに救いの手が差し伸べられる。そして?
薩摩在番屋敷を登場させるともっと物語の奥行きが必要になる。そこが切れている。またウミナイビが乞食として泥棒家業をするのは面白いが、ウミナイビが泥棒家業をする場面は割愛されている。チョンダラーの旅姿で終わり。その後の大変身は華麗で、この間なかったウミナイビの登場のさせ方だった。
演技だが呉屋かなめはいいね!ただ「えーたい」は女ことばで「ええ―さい」が男ことばである。その辺のウチナーグチの問題はクリアしてほしい。またハッタラーとは機知に富んだ者をさすことばである。がこの作品の中で機知が披露されることはなかった。トリックはあったがーー。ハッタラーの当銘由亮の演技は冴えていた。ある面見えを切る所で一瞬真喜志康忠の声音を感じさせた。彼は役柄を勉強しているのだと納得。とてもハンサムでかっこいいハッタラーだった。王女が惚れてもおかしくない役柄である。
音楽が良かった。曲を一応全部メモったのだが、創作もあり古典もあり、唱えと踊りと歌と軽快な音曲もあり、義寛さんの心粋が感じられた。ア―キ―もあり、創作曲の面白さもあり、具体的に曲目を紹介したい。せっかくのパンフで紹介していないのが残念である。音楽は全体の構成で重要な役割を果たしている。軽快さを後押ししている。小嶺和佳子のウミナイビ姿はあでやかで素敵だった。美しい琉球のウミナイビである。義狭心があり、正義感の持ち主!役人(大主)の宇座仁一さん、供川満香多さん、玉城匠さん。酒に酔って、酔い足での入羽などは面白いと思った。すり足ではない。組踊の型もどきである。また拍子木で動きを止めたり、組踊の唱えからウチナーグチの口語に転換したり、と拍子木の面白い使い方をした。それが結構笑いをとっていた。
狂言手事、湊くり節、伊集のガマク小節、ヤグザイ節、安波節、八太郎とクルルンのテーマ曲、連れひき、クーサンクー、ア―キ―、よしやいなう節、などなどの歌・三線は舞台を楽しくした。
組踊のステージとそれを囲む空間、差異の付け方は面白かった。落差をもう少し工夫する必要があるようだ。またせっかくウミナイビを登場させるならば、薩摩役人も登場させ、うみないびが色仕掛けの接待をするとか、そしてハッタラーたちを助けるとか、具体的なアクションが見えたらもっと良かったね。水戸黄門さん的にウミナイビが演じるわけだが、ウミナイビの力はどれほどのものだったのか?実際の「お裁きの場」に出てこられた身分だったのか、も気になっている。
王府時代の組踊は女が女を演じることはありえないので、この喜劇調のお芝居に登場するうみないびは奇抜な設定である。侍・百姓の身分社会があからさまな世にあってそれに憤りを覚えたハッタラーが金のある連中から奪った物を貧しき者達に分け与えるために活躍するそのアウトロー的男の魅力にウミナイビも心惹かれたのだという事が感じられる舞台ではあった。ローマの休日の例のオードリーヘップバーンの王女が逃亡から元の役割(城)に戻るまでの筋書きにも似て、高貴な身分の者が貧困層のヒーローに混じって活躍、やがて本性(身分)を表わし、事を納めるパターンである。
物語の筋書きが既知のパターンゆえに入りやすいが、すでに沖縄芝居の中の義賊たちの物語があり、それをまぁ本歌取りで拝借した物語を組踊風に焼き直して見せた。そして創作音曲も含め、道行に使って楽しませた。チャンプルー劇場である。組踊の型あり唱えあり、歌劇ありウチナーグチ台詞があり、マルムンが主役である。強いて額縁舞台の中に仰々しく三間四方(サイズは?)を設置することは無意味にも思える。大きな舞台で組踊の型や唱えをやって見せても問題はないと言えよう。それほどの差異が設置された舞台から迫ってはこなかった。嘘とリアリティーの落差ではなく、あくまで社会の規範の中の階層が組踊のステージで、その脇は庶民の暮らしなり生活空間としてある。型の世界は秩序であり、それからずれたのは反旗を翻す者たちの空間と取れない事もないが、その規範の世界の崩れを糺すのがウミナイビである。なるほど、そのウミナイビにハッタラーは惚れた。命を救われ、汗水流す百姓に戻る。
すると、ハッタラーの社会改革はどうなったのか?ウミナイビが彼の夢なり革新の決意を吸収してしまったということでピリオド?盗むという皮肉を込めて薩摩在番屋敷まで突き刺す思想の深さは義寛さんにはなかった。薩摩琵琶の演奏で終わってしまっている。残念!その辺が高江洲ギカンさんと監修の田中英機さん、演出の嘉数道彦さんにもっと追求してほしいと思った所です。
これはいくらでも構成し直せる現代沖縄芝居になれるね。あるいは新作組踊と言えるのかもしれない。