日本の那覇市在住の木さんの詩集【傍らの男】がH氏賞受賞だという。「あら?」である。
何年か那覇に住んでいるという木さんは、沖縄の詩人さんたちとはあまり交流がないのらし
い。詩集をひも解いてみると「なるほど」と思った。氏は人とつきあうということにものすご
い距離感をもっていて、人のいる社会=市場がどうもすでに遠い影のような空間に感じている
ような雰囲気である。軍港のある街、那覇に住み、犬に猫に感応し、自らの存在が存在として
生存しているのか否か、もはやどうでもいいようなどうでもあるような詩篇が21作。
沖縄にやってきた当座の詩人の花田英三さんのニヒルな雰囲気よりももっと軽く、存在がない
ようなあるような、身を異民族の中にまぎれさせながらことばをやはり紡いでいるのだが、そ
のことばの中に印象に残るフレーズはない。ことばがきりりと立っている、ということではな
く、ひたすらに存在が曖昧で、いったいこの男はそこで何を見ているのか、どうやら己を見つ
めているのらしいことは分かるが、これが、現在の日本の空虚さ、そのものなのだと思ったら、
幾分納得もしてくる。しかし、それが日本の2010年を代表する詩だという不幸が迫ってく
る。これらのことばからは何も沸き起こってこない!これが現在の日本のことば、詩語ですか?
薄い、味のないスープのようなことばが詩語である、という日本の日常がこのように顕現する
ということに半ばため息をつきながら、詩語に何らかの意味性をこめるということの「むなし
さのようなもの」さえ感じる。
40代だという木さんの詩編は例えば、
【その人】
軍港には海がなかった
誰にも会わないように
移り住み
望みは
誰にもならないこと
アスファルトから船が生えて
青空は遠い
まわりにいる人達は
集まった人達みたいだ
なぜここに来たのかわからないが
机の上で字を書いている人のように
もう少し待てば
わかるかもしれない
目をつむっても
何も見えないが
一人、二人、三人と列をつくって
人が過ぎていく
場違いなことはわかっているが
行くところがない
海に行くバスに乗れば
知らない人によりかかって
その人を
知っている人のようにおもいたい
そして
その人から
名前を呼んでもらいたい
日曜日の午後は
鏡に映っているが
見たこともない
私も映っている
市場や鏡のことばが、死人、犬、猫などの普段着のことばがあふれている、はっとさせるよう
なことばに出あうわけでもない。「どこに行っても私に会えない。私たちには共有できる場所
や時間などないにちがいありません」と木さんはあとがきに書く。「やはり私にはいないふ
りをしてもらわねばなりません」とも書く。
シュールな雰囲気は漂っている。望みは誰にもならないこと、どうしてここに住みついている
か分からない、という。鏡に映っているが見たこともない私も映っているーー私は誰であり私
は私なのか、存在の曖昧模糊とした所在なさが浮かびあがってはくる。
あなたは誰?私はだれ?あなたやわたしの輪郭なんてあるのかな?ないのかもしれない。全く
見知らない街にやってきて住んでそこに違和感も感じながら、されど、ことば、詩語を紡ぐこ
とによってかろうじて【私】を引きとめているのかどうかも分からない。ただこの詩は、存在
そのものの浮遊感に満ちているようにも思える。
じっくり読みたいと、そそられる詩集ではない。不思議さに満ちている。しかしここにはハッ
とさせられる詩語も詩句もない。【マザーグース】の詩篇の奇妙さや怖さや驚きもない。これ
は何だ?亡霊のような生きた存在の確かさのない現在日本ということなのだろうか?この熱い
沖縄、那覇の地で彼は幽霊のように生きている?
日本(人)が彼のようにひっそり生きているのは、いかにも沖縄(植民地)に施しを与え、有
益な正義を実行しているのだと、大きな顔でのびのび教育とか研究とか執筆とかしている身近
にいる大和(人)の知識人たちより、しかし好ましく思えるのは単にルサンチマンの思いなの
か。ひっそりと那覇の街に生きている木さんはひっそり生きているということで、身近な方々
よりやはり凄い方なのかもしれない。詩人の魅力を生きている?!何でも業績(実績)と記録
すること(自己顕示)に鎬を削っているように見える方々にないほんわりした何かを貴方はもっ
ているのかもしれないーーー。しかし、それも社会参加のエネルギーの色合いの違いになるの
だろうか?この構造的な国内植民地(最低収入+米軍事基地+自衛隊基地+身体・精神的圧力
+文化的収奪+限りないものの損失+投機対象の餌食+脱沖縄化(魂の遊離)+防波堤+その
他諸々の諸現象)の中で生きることの曖昧模糊とした存在の叫びは木さんから聞えてはこな
い。
まぎれもなく沖縄人ではなく日本人の詩人の存在感のなさか?
透明なグレーになった己?
やはり日本の詩人の尺度で沖縄を測れないのではないだろうか?比嘉豊光さんが言ったように
大和の知識人が書くものはすべて【トイレットペーパー】(酔った勢いで言ったことば)のも
つ意味性はあるのだと思える。植民地構造についてもっと知見を持つ必要があるようだ。それ
と他のマイノリティーの状況がどう沖縄と類似し、異なるのか、の検証も必要?!
ことばをキーボードに打っている間も隣の部屋のテレビは地震と津波報道が続いている。マグ
ニチュード8.8!この間日本で起こった地震の中でも最大級だという。つなみが街を襲う映
像などが流される。大勢の人間が駅の前に群がる。人間がいつの世も地球そのもののダイナミ
ズムの表層で揺らぎながら生かされているというまぎれもない事実にうろたえる。映像で津波
に飲み込まれるその有様を見ると、ただ茫然として事のなりゆきを見据えるだけである。ニュ
ースは被害の模様を報道しつづける。いったいこの命のありかとは何だろう?災害の前に人は
ただ唖然として立ちすくむだけである。かつて超自然の力の前で神を生み出し、祈ってきた人
類の歴史がある。今何に祈ればいいのだろうか?神の不在!地球、マダー・アースと一体とな
った生存の在り処を謙虚に見つめ、突然命を断たれた方々に哀悼の思いを込めて両手を重ねる
ーーー。
彼らは私であったかもしれないーーー、自らの思い(意志)に反して降りかかる不幸を前に何
ができるのだろうか?
何年か那覇に住んでいるという木さんは、沖縄の詩人さんたちとはあまり交流がないのらし
い。詩集をひも解いてみると「なるほど」と思った。氏は人とつきあうということにものすご
い距離感をもっていて、人のいる社会=市場がどうもすでに遠い影のような空間に感じている
ような雰囲気である。軍港のある街、那覇に住み、犬に猫に感応し、自らの存在が存在として
生存しているのか否か、もはやどうでもいいようなどうでもあるような詩篇が21作。
沖縄にやってきた当座の詩人の花田英三さんのニヒルな雰囲気よりももっと軽く、存在がない
ようなあるような、身を異民族の中にまぎれさせながらことばをやはり紡いでいるのだが、そ
のことばの中に印象に残るフレーズはない。ことばがきりりと立っている、ということではな
く、ひたすらに存在が曖昧で、いったいこの男はそこで何を見ているのか、どうやら己を見つ
めているのらしいことは分かるが、これが、現在の日本の空虚さ、そのものなのだと思ったら、
幾分納得もしてくる。しかし、それが日本の2010年を代表する詩だという不幸が迫ってく
る。これらのことばからは何も沸き起こってこない!これが現在の日本のことば、詩語ですか?
薄い、味のないスープのようなことばが詩語である、という日本の日常がこのように顕現する
ということに半ばため息をつきながら、詩語に何らかの意味性をこめるということの「むなし
さのようなもの」さえ感じる。
40代だという木さんの詩編は例えば、
【その人】
軍港には海がなかった
誰にも会わないように
移り住み
望みは
誰にもならないこと
アスファルトから船が生えて
青空は遠い
まわりにいる人達は
集まった人達みたいだ
なぜここに来たのかわからないが
机の上で字を書いている人のように
もう少し待てば
わかるかもしれない
目をつむっても
何も見えないが
一人、二人、三人と列をつくって
人が過ぎていく
場違いなことはわかっているが
行くところがない
海に行くバスに乗れば
知らない人によりかかって
その人を
知っている人のようにおもいたい
そして
その人から
名前を呼んでもらいたい
日曜日の午後は
鏡に映っているが
見たこともない
私も映っている
市場や鏡のことばが、死人、犬、猫などの普段着のことばがあふれている、はっとさせるよう
なことばに出あうわけでもない。「どこに行っても私に会えない。私たちには共有できる場所
や時間などないにちがいありません」と木さんはあとがきに書く。「やはり私にはいないふ
りをしてもらわねばなりません」とも書く。
シュールな雰囲気は漂っている。望みは誰にもならないこと、どうしてここに住みついている
か分からない、という。鏡に映っているが見たこともない私も映っているーー私は誰であり私
は私なのか、存在の曖昧模糊とした所在なさが浮かびあがってはくる。
あなたは誰?私はだれ?あなたやわたしの輪郭なんてあるのかな?ないのかもしれない。全く
見知らない街にやってきて住んでそこに違和感も感じながら、されど、ことば、詩語を紡ぐこ
とによってかろうじて【私】を引きとめているのかどうかも分からない。ただこの詩は、存在
そのものの浮遊感に満ちているようにも思える。
じっくり読みたいと、そそられる詩集ではない。不思議さに満ちている。しかしここにはハッ
とさせられる詩語も詩句もない。【マザーグース】の詩篇の奇妙さや怖さや驚きもない。これ
は何だ?亡霊のような生きた存在の確かさのない現在日本ということなのだろうか?この熱い
沖縄、那覇の地で彼は幽霊のように生きている?
日本(人)が彼のようにひっそり生きているのは、いかにも沖縄(植民地)に施しを与え、有
益な正義を実行しているのだと、大きな顔でのびのび教育とか研究とか執筆とかしている身近
にいる大和(人)の知識人たちより、しかし好ましく思えるのは単にルサンチマンの思いなの
か。ひっそりと那覇の街に生きている木さんはひっそり生きているということで、身近な方々
よりやはり凄い方なのかもしれない。詩人の魅力を生きている?!何でも業績(実績)と記録
すること(自己顕示)に鎬を削っているように見える方々にないほんわりした何かを貴方はもっ
ているのかもしれないーーー。しかし、それも社会参加のエネルギーの色合いの違いになるの
だろうか?この構造的な国内植民地(最低収入+米軍事基地+自衛隊基地+身体・精神的圧力
+文化的収奪+限りないものの損失+投機対象の餌食+脱沖縄化(魂の遊離)+防波堤+その
他諸々の諸現象)の中で生きることの曖昧模糊とした存在の叫びは木さんから聞えてはこな
い。
まぎれもなく沖縄人ではなく日本人の詩人の存在感のなさか?
透明なグレーになった己?
やはり日本の詩人の尺度で沖縄を測れないのではないだろうか?比嘉豊光さんが言ったように
大和の知識人が書くものはすべて【トイレットペーパー】(酔った勢いで言ったことば)のも
つ意味性はあるのだと思える。植民地構造についてもっと知見を持つ必要があるようだ。それ
と他のマイノリティーの状況がどう沖縄と類似し、異なるのか、の検証も必要?!
ことばをキーボードに打っている間も隣の部屋のテレビは地震と津波報道が続いている。マグ
ニチュード8.8!この間日本で起こった地震の中でも最大級だという。つなみが街を襲う映
像などが流される。大勢の人間が駅の前に群がる。人間がいつの世も地球そのもののダイナミ
ズムの表層で揺らぎながら生かされているというまぎれもない事実にうろたえる。映像で津波
に飲み込まれるその有様を見ると、ただ茫然として事のなりゆきを見据えるだけである。ニュ
ースは被害の模様を報道しつづける。いったいこの命のありかとは何だろう?災害の前に人は
ただ唖然として立ちすくむだけである。かつて超自然の力の前で神を生み出し、祈ってきた人
類の歴史がある。今何に祈ればいいのだろうか?神の不在!地球、マダー・アースと一体とな
った生存の在り処を謙虚に見つめ、突然命を断たれた方々に哀悼の思いを込めて両手を重ねる
ーーー。
彼らは私であったかもしれないーーー、自らの思い(意志)に反して降りかかる不幸を前に何
ができるのだろうか?
直接コメントをいただき恐縮です。八重洋一郎さんの詩篇も市原千佳子さんの詩篇も好きですね。
「言語の開拓」の点で納得いきます。私は詩を真剣に追及してきた人間ではなく傍らに見てきた者、読んできた者ですが、自分の詩篇はいずれ生きている間に形にしたいと考えています。
高木さんの詩篇のもつ何かをもっと考えてみますね。それが好ましいと思うかどうか、はそれぞれで、実験的で不思議な感じは受けます。ことばがもうずれっぱなしの印象。私自身ほんとうのことばがありえるのか、などと考えています。関係の絶対性ということばがありますが、実は人は本当の対話をなしえず死ぬのではないかという思いに昨今突き動かされています。
後ほど直接メール差し上げます。
大口叩いてリアルで叩かれてブルったのでしょう
程度がしれますね
最近のツイッターもそうですがネットというのは
バカ発見機という一面があるので注意が必要ですね
高木さんのコメントはUPしてもいいのですが、どうも狭い沖縄社会があり、(最も日本語が読める方はアメリカからもアクセスしているようですが)配慮しているということです。
必要なら、是非読みたい方はご連絡ください。メールでご紹介したいと思います。
単純に思えるのですがそうではなく、沖縄や日本の思潮がまた伺えますね。
最近某詩人が「文化XXX」ということばをいかにも御自分の概念のようにお書きになっていますが、それをまた沖縄のいわゆる文化人が持ち上げるという拙劣な現象もあって、とかく「この世はおかし」です!あれはミーム理論でしょう。すでに出された論理をただもってきただけですよね。
ちゃちでパクリがうまいのは大学の研究者もそうですよ。このブログはおそらく研究素材を大分提供しているのだろうな、などと思っています。
パクリの名人は大学だけではなくどこにもいますよね。要は企業間の開発やアイディア競争を含め、すべては発想だと言えます。発想の提供をしているのだという感じがしますね、いいのかな?
見事言われましたね、▲人を誇っている男に、「批評の前にこれ以上に優れたものを自分で書いて示せ」でした。
Living Spiritsの批評を書くというと、これにケチをつけるな、でした。了見が狭いのです。
人がやったことにケチをつけるな、なんてね。詩集は出されたらどう読者が感じ、それをどう批評しようが、それは読者の自由ですよね。
それは翻訳でもそうです。アンソロジーでも読まれて批評されて次のステップに行くのです。批評の力を侮るのはどうなんでしょうね。どの分野でも論議や批評の輪の中からまたはじけていきます。
少し論点がずれてきたのですが、まぁどれだけ真象に近づけるか、常に試されているのでしょうね。
事務局をやっているものです。
年二回本を出す他に年二回勉強会をしていまして、H氏賞受賞作品についての勉強会を次回行いたいと思っています。
作品に対する書評も参考にさせていただくのも勉強ではないかと考え、検索しましたところブログを発見しました。
次回勉強会で参考にさせていただきますのでよろしくお願いします。
ちなみに昨年の田原さんの時にはもう少し書評がいくつかあったのですが、今回の高木敏次さんのは参考になるのがありませんでした。「世間的にそういう評価」なのかと思ってしまいました。
「賞を取れる作品」と「私が好きな作品」は別物だと思っていまして、賞を取ったからといって読む事をしていないので偉そうなことは言えないのですが。
ブログにUPしましたが、問題がありましたら削除などOKです。公開の場で多様にことばを、詩の世界を論じ合うこと、(単純に感想を言い合う事も含め)はとても大切なことだと思います。
高木さんの詩もおことばもとても沖縄の位置を意識させてくれました。日本人のことばについてもとても気になっています。
日本人と沖縄人のことばにはやはりどこか隙間があるのではないのだろうか?などと、すべてに遅れてきた人間はいろいろと考えさせられています。
ちょっとなあという感じでしたが、消されたのですね。個人的に保存し、批判材料(あらら、自分の立場を告白しちゃった)として分析したいので、お送りください。拙ブログからメーメアドレスが辿れます。では、よろしくお願いいたします。
開示していいのだろうか?最近いろいろと躊躇もあります。ことばは書いた当人の魂でもあると思うとーーー、うっかり書いたことばもまたネットでオープンになる時代です。もちろん訂正も可能ですが、デジタル社会ですので、私も何度も間違いを犯しているように感じています。
上の文面にも書いたのですが、あなたの那覇の街でのこの間の生活など私は全く知らないわけですが、ひっそりとそこにいる高木さんは好ましい方なのだと感じています。
あなたのメールを開示する権利がワタシにあるのだろうか?たとえコメントの欄に書かれたとはいえ、うっかり即時的に書かれたことも考えられます。その辺のことが知りたいです。
コメントを開示することの是非ですね!
それでスロウハンド様のご希望ですが、確かにブログからメールを送ることは可能ですが、少し考えさせてください!それが妥当なことなのか、気になっています。
高木さんの詩に現在の日本をまた照らすことばの妙味【不思議】があるからこそH賞受賞かもしれませんよね。沖縄に対するオリエンタリズムのような眼差しがコメントに幾分感じられたにしても、それは植民地の人間に対する宗主国の人間のおごりにも見えますが、それは総べての日本人の中の無意識の傲慢さに似たものかもしれません。現在の政治的縛りに象徴するようにーーー。
制度的にシステムとして、亜日本(人)=琉球(人)=沖縄(人)なのか?!大学インテリー層は沖縄ネイティブなどと言っていますが--、例えば琉球大の喜納育江さんなど。沖縄ネイティブは、アメリカ先住民のインディオと比類(比肩)できるのか?
とまぁ、他者のコメントですが、それをOFFにしていて、またONで読みたい方にことばを送るとい行為が妥当なのか、少し時間をください!
上がいうのは、結構、古いテーマからのきわめて尖鋭な連続を感じます。古い言葉ですが、かつて島尾敏雄がヤポネシアという造語をつくりました。当時、島尾さんは奄美の図書館を退職され、厚木のほうにお住まいでした(記憶違いならごめんなさい)。とある市民講座みたいなところで、島尾さんの肉声を聞き、ものすごく引き裂かれている感覚を語った印象を覚えています。
実のところ、沖縄の内部が帝国の硬直によって引き裂かれているとしたら、高木さんが詩を書く意味もまた違う風景にみえてしまうように感じたのです。興味本位かもしれませんが、それだけではなく戦後体制への落とし前から彼はどのように自分を位置づけているのかが作品からは全くわからなかったと正直に申し上げます。
では、すべての判断を委任いたします。
私自身それを経験しているゆえに、高木さんの名前で投稿されてきたことばを表にしないことに決めました。
上のエッセイにも書いたように、高木さんの那覇の街での生き方を(それも単に推測のレベルですが)、在る面【好ましい】と私は感じています。
氏の詩篇は不思議な感覚に襲われますし、おそらく那覇にいても東京にいても同じような感覚のことばがあふれてくるのかもしれません。
政治や状況など縦の時間軸をとっぱらった存在そのものの不思議さがあり、そこからまた高木さんがどんなことばを編んでいくのか見守りたいと思います。
今後コメントされたい方は高木さんの詩集の感想などお願いします。
存在の裂目はどこにもありますよね。その裂目で血を流しているのも事実で魂の血、肉体の血があり、消えたくなる衝動も起こります。
詩のことば、その世界を尊重していく所存です!
…正しい文法を理解できる能力がなかったので、
>>見たことのない文法。(文法を)刷新する、更新するということ(琉球新報)
なんていってしまっただ。
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これは私の空想、もしくは妄想です。
わたしはもともと理数系出身にも関わらず大学では文学部の教員でした。でも、大好きだったのはユークリッド原論(ここでわたしの頭の悪さがわかります)。
さて質問です。
文法のまったくわからない人
に、
見たことのない文法
なんて導けるのかなあ。だって、そもそも前提となる「文法」が全く理解できていないじゃん。
「見たことのない文法」とデタラメな文法は違うということが、この人、まったくわかっていないのでは?
詩が言語である限り、それを壊したマラルメよりも何百年以上後退した作品レベルで、えらそうに「見たことのない文法」などと書かれるのは極めて不愉快だってこと。
差別は正しくないが、それでも平等性から逸脱したバカを守ってきたのは平等社会だ。そのバカが無根拠に増長するのは、きわめて不均衡な社会現象である。そして、それを補完するシステムに堕落したのが本ブログだということがよーくわかったぞ!!